包囲攻撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 18:53 UTC 版)
フレグはムスタアスィムに降服を要求したが、ムスタアスィムは「バグダードを攻撃すればアラーの復讐を受けることになろう」と警告して降伏を拒否した。にもかかわらず、ムスタアスィムは軍隊の増強やバグダードの城壁の強化をしていなかった。イギリスの中東戦史家デビッド・ニコルは次のように述べている。「ムスタアスィムは戦争の準備を怠っただけでなく、フレグの要求に従わなかったことでバグダードの破滅を決定付けてしまった。もしムスタアスィムがモンゴルのハーンの権威を認めていたならば、モンケはムスタアスィムの命を取りはしなかっただろう」。 バグダード包囲攻撃の前、イラン高原の山岳地域を根拠地としていたニザール派の教主フルシャーが帰順したことによって、多くの山城が開城もしくはモンゴル軍の包囲攻撃によって陥落し、難攻不落をうたわれていた中心的拠点のアラムート城塞もモンゴル軍に引き渡されたことでほぼ無力化されてしまっていた。アラムートが陥落し、次いでアッバース朝の攻略に取り掛かったフレグはハマダン経由でバグダードへ西進、諸将に命じて道中のザグロス山脈周辺の諸勢力の攻略も併せて行った。 フレグはチグリス川の付近で軍を東西に分割した。アッバース朝軍は西岸から攻撃するモンゴル軍は撃退したが、東岸からの攻撃に耐えられなかった。モンゴル軍はアッバース朝軍の後方の堤防を破壊し、水攻めを行い、アッバース朝軍の多くはなすすべなく虐殺されるか溺死した。 郭侃の命令でモンゴル軍の中国人部隊が柵と溝を建築し、攻城兵器とカタパルトでバグダードを包囲した。攻撃は1月29日に開始された。モンゴル軍の攻撃は包囲攻撃の理論通りに迅速に行われ、2月5日、バグダードの城壁はモンゴル軍に破られた。ムスタアスィムはフレグと交渉しようと試みたが、時既に遅く、拒絶された。 かつてバグダードにはマンスールが築いた難航不落の「円城」があった。しかし、サマラに遷都したときに放棄され、サマラからバグダードへ再度遷都した頃には荒廃していた。そこでアッバース朝はチグリス川の東岸に新たにカリフの宮殿と市街地の城壁を造り直した。しかしこれによって、チグリス川東岸から襲来する勢力からの圧力を直に受けやすくなり、カリフ権力の弱体化に拍車をかけ、また、バグダードが容易に攻略された原因になったと言われている。 2月10日、ついにアッバース朝は降伏。モンゴル軍は2月13日にバグダードに流れ込み、それから1週間にわたって虐殺、強姦、略奪、破壊を繰り広げた。
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