ダブリュー‐アール‐シー【WRC】
ダブリュー‐アール‐シー【WRC】
WRC
WRC
FIA世界ラリー選手権の略。FIAが認める世界選手権はF1とWRCの2つしかなく、F1がサーキットレースの頂点ならば、WRCはラリーの頂点。WRCにはマニュファクチャラーズ(メーカー)選手権とドライバーズ選手権がかけられているほか、プライベートチームを対象としたチームズカップ、グループNドライバーを対象としたグループNカップがかけられ、さらに将来のワークスドライバーの登竜門としてのスーパー1600カップが2001年から新設された。02年からはスーパー1600がJWRC(Junior World Rally Championship)、グループNがPWRC(Production Car World Rally Championship)と世界選手権に格上げとなっている。ちなみに、タイトルの決め方は各ラリーの1位から8位までに10-8-6-5-4-3-2-1点を与え、合計得点で争う。ただし、マニュファクチャラータイトルは3人を登録、上位2人を加算して決める。
WRC
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/31 08:14 UTC 版)
WRC(ダブリューアールシー、ダブルアールシー)とは
- 世界ラリー選手権 (World Rally Championship) の略。
- ワールドラリーカー (World Rally Car) の略。
- 世界無線通信会議 (World Radiocommunication Conference) の略。
- リーチ麻雀世界選手権 (World Riichi Championship)
- WRC (Weighted Runs Created) 野球の打者の得点を測る指標の英称の略。
- WRC造 (Wall Reinforced Concrete) - 建築構造様式に分類される壁式コンクリート構造の英称の略。
- WRC-TV (W Radio Corporation of America) - アメリカ・ワシントンD.C.のNBC直営テレビ局。
WRC(1978年 - 1980年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/06 14:45 UTC 版)
「モータースポーツにおけるメルセデス・ベンツ」の記事における「WRC(1978年 - 1980年)」の解説
「 またスポーツに参加すべきだと思うからラリーに参加するのです。これは皆さんがふだんスポーツをしていて、ある期間休んでしまった後で、また考え直して再開するのと同じようなものです。「スポーツ」の種類を検討してみて、市販車とほぼ同じ車両で類まれな信頼性をお見せすることができるラリーは我々に最適だと判断した次第です。無論、勝利を目指します。 」 —ヴェルナー・ブライトシュベルト 1978年3月、ヴェルナー・ブライトシュベルトが車両開発部門の責任者となり、同部門にラリー部門を設け、エリック・バクセンベルガーをマネージャーに任命してラリーに専念できる体制を構築した。これはダイムラー・ベンツ全体としてのレース活動ではなく、車両開発部門としての研究開発の一部という名目だったが、車両開発部門は15億マルク(ドイツマルク)もの年間予算を持っていたことから、ラリー部門にも潤沢な予算が投じられ、シュトゥットガルト北東のヴァイブリンゲンに置かれたラリー部門の拠点では50名もの人員が仕事に従事した。 この時期のラリー活動はサファリラリー制覇を目標としたもので、習熟の一環として、同じアフリカ大陸のコートジボワールラリー(英語版)などにも参戦した。両ラリーを含め、いくつかのラリーは当時の世界ラリー選手権(WRC)に組み込まれていたものであり、1978年から1980年にかけてメルセデス・ベンツは同選手権にスポット参戦した扱いとなる。1979年のWRC最終戦として開催されたコートジボワールラリーで450SLC 5.0は1-2-3フィニッシュを飾り、これがメルセデス・ベンツにとってのWRC初優勝となり、翌年の同ラリーでも500SLCで1-2フィニッシュを果たしたため、記録上、メルセデス・ベンツはWRCで2勝していることになる。 ドライバーとしてはコーワンのほか、ビョルン・ワルデガルドとハンヌ・ミッコラをメインに起用した。
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