TsAGI時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/05 00:24 UTC 版)
「ムスチスラフ・ケルディシュ」の記事における「TsAGI時代」の解説
1931年、モスクワ大学を卒業したケルディシュは、ラヴレンチェフの薦めで中央航空流体力学研究所 (TsAGI) に職を得た。モスクワ大学でケルディシュの才能を知っていたニコライ・ルージンなどは、ケルディシュが純粋数学に専念せず、応用分野に傾注することを嘆いていたという。 当時TsAGIでは、所長のセルゲイ・チャプルィギン(英語版)が主宰し、研究所の気鋭の科学者、技術者が集まるセミナーが定期的に開かれており、ケルディシュもそれに参加した。ケルディシュは、深い洞察力と頭の回転の速さで、すぐに頭角を現した。TsAGIには、手本となる科学者が大勢身近にいたが、特にチャプルイギンは世話役としての能力に長け、ケルディシュの後半生における優れた手本となった。 TsAGIでの最初の数年、ケルディシュは航空力学、流体力学、複素解析、ポテンシャル論、微分方程式論などの基礎研究に打ち込み、多数の論文を発表した。 1930年代後半になると、ケルディシュは航空機でその頃新たに問題となっていた危険な現象である、フラッタ現象の研究に集中して取り組んだ。フラッタ現象は、航空機の飛行速度が臨界を超えると、翼に振幅が増大し続ける振動が発生する現象で、翼が破壊され大事故になる恐れがある。その当時の空気力学の理論では、振動している有限長の翼に作用する力を正確に決定し、その方程式を解くことはできなかった。これに対しケルディシュらは、問題を定式化できるように単純化するための、最適な近似方法を見出し、更に既存の演算能力で数値解析を実行してその解を得られる計算手法を編み出した。この結果に基づいて構築した模型により、風洞実験でフラッタ現象が再現され、フラッタを抑制する単純かつ信頼性の高い方法を確立する基礎となった。この一連の成果によって、ソ連ではフラッタが原因の事故で喪失した航空機の数が、同時期のドイツより一桁少なかったともいわれる。ケルディシュは、フラッタ問題克服の功績により、1942年にスターリン賞を受賞している。 フラッタ問題の研究をまとめた後、ケルディシュはTsAGIでその成果を生かし、TsAGIが開発製造する様々な製品の振動問題の試験、対策に当たった。そして、フラッタとは別の航空機の深刻な振動問題、シミー現象に取り組んだ。シミーは、航空機の三輪式着陸装置の前輪に生じる激しい首振り振動で、やはり航空機にとっては危険な現象である。シミーのデータを蓄積し、その特性を理解する試みは始まっていたが、シミーが発生する原理の理論化は難航していた。ケルディシュは、転がるタイヤが安定性を失う、数学に裏付けられた物理的な仕組みの基礎的な理論の構築に成功し、シミーの発生を防止する簡潔な方法の開発へ道筋をつけた。シミー現象解明の功績により、ケルディシュは1946年に2度目のスターリン賞を受賞した。
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