TBSアナウンサー時代
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横浜雙葉中学校・高等学校を経て国際基督教大学教養学部人文科学科を卒業後、1990年4月にTBSにアナウンサー26期生として入社(同期は岩井健浩、有村美香、田中宏明)。 入社から1年後の1991年4月、朝のワイドショー『モーニングEye』のキャスターに抜擢される。また、番組最後の出題アシスタントとなった『クイズダービー』をはじめ、『そこが知りたい』や『スーパーサッカー』なども担当した。 1996年秋に『モーニングEye』がTBSビデオ問題の影響で終了した後は、『筑紫哲也 NEWS23』第2部のキャスターに就任。「若き巨匠ヨー・ヨー・マー」で第22回'96アノンシスト賞 グランダ・プレミオ賞を受賞するが、1997年秋の番組リニューアルを機に降板した。 1998年3月にTBSを退社するまでの半年間は、TBSラジオの『渡辺真理 MELODY MARKET』が唯一のレギュラー番組であり、他は世界フィギュアスケート選手権中継のナビゲーターを務める程度であった。
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TBSアナウンサー時代
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『どうぶつ奇想天外!』『チューボーですよ!』などのバラエティ番組を中心に担当した。また、早朝情報番組の司会やお昼の生番組でアシスタントをこなし、ラジオではレギュラー番組を複数担当した。当時のアナウンス室内では、3年先輩の渡辺真理、1年後輩の進藤晶子と公私共に親しい仲だった。 1995年の阪神・淡路大震災発生時には、担当していた朝の情報番組『ザ・フレッシュ!』で、大阪の毎日放送に出向き原稿を読むなど、報道関連の活動もあった。
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TBSアナウンサー時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 10:08 UTC 版)
1977年4月、アナウンサー第17期生としてTBSに入社。同期にはアナウンサーの神津栄子(旧姓:浅井)、吉川美代子、他職ではTBS報道局記者・執行役員の金平茂紀、TBSビジョン代表取締役社長兼TBSホールディングス(TBSHD)執行役員の田代冬彦、推理作家の井沢元彦がいる。入社後、『3時にあいましょう』『ネットワーク』『JNNニュースコープ』など同局を代表する報道・情報番組を中心に担当。一方で、音楽番組やバラエティ番組の司会も手広くこなす。 1983年、徳仁親王がオックスフォード大学に留学した折には同行取材し、記者団の中で紅一点だった三雲は、浩宮と会話を交わしながらロンドン市内を一緒に散歩した。この様子はTBSスタッフによってテープに編集され、東宮御所に献上された。当時の皇太子であった上皇明仁は家族とともにこのビデオを楽しんだという。 昭和天皇が崩御した1989年1月7日には夕方の『JNN報道特別番組』に出演し、新元号に「平成」が決まったことなどを伝えた。 1989年、TBSビジョンのプロデューサーで6歳年上の星勝幸(日本大学法学部卒業)と結婚。遡ること12年前に、三雲が『3時にあいましょう』のキャスターをしていた時に、星はディレクターを担当していたため仕事上で関わりがあった。1990年10月10日にTBSを退社。
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