T4作戦への公然の批判
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「クレメンス・アウグスト・グラーフ・フォン・ガーレン」の記事における「T4作戦への公然の批判」の解説
1941年8月3日の説教で安楽死政策を公然と批判し、計三回の批判演説を行った。ガーレンはこれらの説教で、抗議にもかかわらず患者が病院から連行されていったことを述べた上で、「もし精神疾患患者を初めとして、『非生産的人間』を殺害する権利があると認めるなら、それはすべての『非生産的人間』を自由に殺害できることになる。そうなると、誰もが安全ではなくなる。なにかの委員会が『非生産的人間』と判定し、そうすれば『生きるに値しない命』となってしまい、なにも私たちを殺害から守ってくれないからだ」と殺害してよい命を人が定めることは十戒にある「殺してはならない」に反する点、また十戒にある「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」という言葉を引き、国家・人種・民族・自然等の偶像化が行われていることを批判している。また、ガーレンは刑法190条による告発も行っている。 一部のナチ党幹部はガーレンを死刑にするよう求めたが、ミュンスター市民への影響を考慮したゲッベルスは慎重論を主張し、総統アドルフ・ヒトラーもそれに応じた。ただしミュンスター教区の下級聖職者の中には逮捕されたものも多く出ている。演説は連合国軍が宣伝ビラでガーレンの説教文をばらいたことで一般にも広く知られるようになり、世論も動揺した。ローマ教会の最高司教会総会は安楽死政策が認められないという決定を行い、教皇ピウス12世がその決定を広く公布するよう命じた。ピウス12世はこの後もたびたび安楽死を批判する発言を行った。 T4作戦への批判が高まったことから、1941年8月24日にヒトラーはT4作戦の責任者フィリップ・ボウラーに対して安楽死の中止を口頭で命令した。この中止命令により、安楽死政策そのものは公式的に中止されたと公には受け取られたものの、実際にはハダマー安楽死施設(ドイツ語版)のガス殺が中止されたのみに過ぎなかった。1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件では、弟のフランツ・フォン・ガーレン(ドイツ語版)が逮捕され、強制収容所に送り込まれている。 1946年2月、ローマにて枢機卿に叙任され、その際にはローマ市民から「ガーレン伯爵!ガーレン伯爵!(Il conte Galen,il conte Galen)」と歓呼の声を受けた。3月の帰国後間もなく病に倒れ、3月22日に没した。墓所は聖パウルス大聖堂(ドイツ語版)に置かれ、1987年には教皇ヨハネ・パウロ2世の訪問を受けている。教皇は「私が今日ミュンスターヘ来たのは、この墓に詣で、ここで祈るためである」と述べている。
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