KO負け・怪我・引退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 08:16 UTC 版)
その後、赤井は再び世界を目指すべく再起をかけることになり、2度目の世界タイトルを目指そうとした前哨戦として、1985年2月5日に開かれた大和田正春との試合に臨む。しかしこの試合、赤井はあまりにも大和田の強打に打たれ過ぎ、またも第7ラウンドでのKO負けの後、意識不明に陥る。急性硬膜下血腫、脳挫傷と診断され、大阪市内の富永病院で開頭手術が行われた。搬送時生存率20%、手術後生存率50%と極めて重篤な状態であったが、無事に回復(本人曰く、開頭中に意識が回復し、タオルで包まれた自分の脳を触ったという。触ると強烈な吐き気を催したが、その理由が解らず何度も触っては吐き気を催したと証言していた)。回復後はボクサー復帰も視野に入れていたが、医師からボクサーを引退するように勧告を受け、現役を引退する。 この生死をさまよっていた時、浪速高等学校ボクシング部の先輩であった藤本義一は、気の早いあるスポーツ紙に追悼文を書くように依頼されたという。しかし、「(まだ死んでもいないのに)冗談じゃない!」と一蹴した。その後赤井は、藤本と出会った際に「ありがとうございました」と、お礼を言ったという。 なお赤井は、2009年10月6日未明にフジテレビで放送された特別番組『僕と家族の公式記録』で、非公式ながら引退後25年振りにリングへ復帰(関西テレビでは同年10月14日未明に放送)。1ヶ月に及ぶ禁酒・禁煙と、現在の妻が帯同したトレーニングの末に、現役のWBC世界バンタム級王者・長谷川穂積と3ラウンド(1ラウンド3分)の公開スパーリングに臨んだ。 上記の挑戦では、脳挫傷の影響が懸念されたが、医師による診察の結果「右側頭部にパンチをもらわない」との条件付きで試合を許可。番組制作者も、「体重を75kgにまで減らさなければ挑戦権を剥奪する」との制約を赤井に課す一方で、トレーニングの途中までは赤井に対戦相手を明かさなかった。 赤井自身は、引退後に節制とは縁遠い生活を続けた影響で、トレーニング前には現役時代の全盛期から体重が16kgも増えていた。しかし、「50歳の自分が真剣に戦うことで、(部員の不祥事で2009年6月に廃部へ追い込まれた)近畿大学ボクシング部の後輩たちに、“ボクシングは素晴らしい”とのメッセージを送りたい」との決意を胸に、178ラウンドに及ぶトレーニングで、5.2kgの減量に成功。この減量で体重が75kgを切ったことから、母校の浪速高校内に設けられたリングで、長谷川との対戦を実現させた。
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