A子事件
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1992年(平成4年)12月、京都府庁でアルバイトをしていたA子は、センターに勤務している姉を通じて矢野から秘書として採用したいという申し出があった。1993年(平成5年)1月8日に京都市内のホテルにあるフランス料理店にて、A子とA子の姉、矢野、矢野の所長秘書の4人で面接を兼ねた会食を行った。その際、矢野は、あと数回会ってから採否を決めること、次の面接については姉を通じて後日連絡することを伝えた。 次の面接日である1月12日、出張から戻ってきた矢野と駅で再会し、矢野が疲労を訴え、話し相手になってほしい旨を述べたため、A子は「私でよかったら話し相手になります。」と応じた。その後、会食で利用したホテルの地下にあるバーに向かい、階段を降りる途中で、矢野は「私がこういう風に疲れた時は、『先生、今日は一緒に飲みに行きましょう。』とか、『先生、今日は添い寝をしてさしあげましょう。』とか言わなければいけない。それが秘書の役割だ。」と言った。A子はバーに入った後、秘書の仕事は自分には負担が大きいので辞退する旨を述べた。すると、矢野はA子に対し、「秘書としての事務処理の能力で雇うんではない。ハートの付き合いをしてもらうために雇うのである。」などと怒鳴り始めた。A子は「私には恋人がいるから、先生とはハートの付き合いができない。」と言うと、「男がいるような妹を紹介したお姉さんもお姉さんだ。お姉さんと所長秘書には責任をとってもらう。私は所長だから辞めさせることは簡単なんだ。」と畳み掛けた。A子は、これらの発言を聞いて秘書採用の最終的な返答について保留し、矢野から次の休日頃に再度会いたいから予定を開けておくようにと言われて別れた。 A子が帰宅後に自室で泣いていることから事情を察したA子の母がA子の姉に電話をし、A子は電話口でその日の経緯についてA子の姉に説明した。A子の姉は話を聞いて憤激し、翌日、所長秘書に事情を説明し、A子の秘書採用を断り、自分も責任を取って辞職する旨を申し出た。A子は、前田教授にも事情を説明した。前田教授から事情を聞いた高谷教授は、A子の姉に対して、矢野に謝罪させる旨を電話で伝えた。 2月25日、同ホテルにおいて、前田教授、高谷教授、所長秘書、A子の姉の立ち会いの下に、矢野はA子と会い、二度と同じようなことはしない旨を書き記した念書を渡し、「意志の疎通がうまく行かず、誤解が生じたのを深くお詫び致します。」と謝罪した。A子は、念書に「セクハラ」の文言を入れてほしいと思ったが受け入れられず、A子に対する言動の詳細については「あなたの心を傷付けた」という抽象的表現に留まった。 3月8日、この事件を告発する匿名の文書が、文部大臣と文部省記者クラブに届いた。矢野は、この事件を全面否定する釈明書を提出した。
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