838年から1327年
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「ライネ (ミュンスターラント)」の記事における「838年から1327年」の解説
838年のルートヴィヒ敬虔王の寄進状にはヴィラ・レニの他にヴェトリンゲンとシェッピンゲン(ドイツ語版、英語版)の寄進についても記述されている。この文書の中でヴィラ・レニは他よりも丁寧に記述されており、このことからこの集落が他の周辺集落を結びつける重要な村であったことを示している。寄進状の「十分の一税およびすべての所領と付属するものとともに」という記述は、歴史家カール・ボスルによれば、土地だけでなく非自由民の職人や運搬人をも含んでいると推測される。すでに小さな入植地が形成されていたのである。 853年(これには Hreni という名前で登場する)、995年、1002年(これには Hreini と表記されている)の文書におけるライネ集落の記述は、その内容から基本的に「集落」の状態であり、ヘルフォルト修道院の所領であった。1022年から1032年までの日付のある文書は11世紀に人口が大きく増加したことを示唆している。集落の北部に新たな教会が設けられたのである。1126年と1156年の文書では、ライネは初めて pagus Rene と記載されている。pagus(ドイツ語版、英語版) とは、ほぼ村落の構造をした農場や集落の地域を意味する。これによりライネは農場(荘園)から村落への発展は完結したと考えられる。 13世紀から14世紀には、ライネは常にミュンスター司教領(ドイツ語版、英語版)の領邦政治の焦点となっていた。早くもリウドガー以降のミュンスター司教にとって、ライネを通ってエムデンへ向かうフリース街道は、単に重要な交易路と言うだけでなく、司教領のオーバーシュティフト(高地地域)とニーダーシュティフト(低地地域)とを結ぶ街道として強い関心の的であった。ライネは、一方ではヘルフォルト修道院の所領であるとともに、他方ではライネ地方北部や集落自体がベントハイム伯、リンゲン伯、シュタインフルト伯、テックレンブルク伯の野心が交錯する地であった。1300年頃、現在のベントラーゲ地区にベントハイム伯がデーヴェスブルク城を、現在のエルテ地区にシュタインフルト家がシュヴァーネンブルク城を建設した。後者はさらに、高台にある Rene 集落の近くに防衛施設を有する前哨基地を築いた。これら2つの城は現存していない。シュヴァーネンブルク城は1343年にミュンスター司教の軍勢によって占領され、完全に取り壊された。 武力外交上の理由から、Rene を所領に取り込み、防衛施設を設けることはミュンスター司教にとって不可欠であった。この目的のために司教はまずライネの都市中心部建設を奨励した。これにより司教の権力と影響力は護られた。 この政策は、司教ルートヴィヒ2世フォン・ヘッセン(在位 1310年 - 1357年)の下でピークに達した。1314年に司教ルートヴィヒ2世はその文書の中でライネについて oppidum Rene、すなわち「ライネ市」と記述した。この時代の oppidum とは、防衛施設を持つ街を意味するのが常であり、確かではないものの1314年頃にはすでに最初の都市防衛施設が建設されていたことが示唆されている。1327年には確実に防衛施設が存在していた。 司教ルートヴィヒは、遅くとも1323年にはライネの防備を固め、最終的にその権力を掌握する計画に着手した。しかし、この計画はマルク伯エンゲルベルト(ドイツ語版、英語版)とのフェーデに破れ、囚われの身となったことで頓挫した。エンゲルベルト伯との間で締結された平和条約は、ライネの防衛施設建設を放棄することを規定した。エンゲルベルト伯は、おそらく、血縁で同盟者のテックレンブルク伯オットーの要望によってこの項目を設けたのであろう。これらの伯に対抗して、ライネを防衛拠点とするルートヴィヒ司教の計画が立案された。建設が始まっていた防衛施設建設が取り壊されたかどうかは明らかでない。ただし、わずか4年後に「都市」に昇格した際にはすでに都市防衛施設があったことが証明されている。
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