5号ドックと建艦競争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 14:58 UTC 版)
「横須賀海軍施設ドック」の記事における「5号ドックと建艦競争」の解説
日露戦争後、日本は海軍の更なる充実を図ることとし、その中で軍艦の国産化を進めていくこととした。明治38年(1905年)5月には戦艦薩摩が起工され、翌年11月に進水した。そのような中、明治39年(1906年)、イギリス海軍はそれまでの戦艦を旧式化させる革命的な戦艦ドレッドノートを完成させた。ドレッドノートの誕生は各国の海軍関係者に強い衝撃を与え、建艦競争が開始されることとなった。日本海軍も明治41年(1908年)、戦艦河内と摂津の建造を開始し、建艦競争に加わっていった。 このような情勢下、日本海軍の艦船数は著しく増加し、また大型化した。明治38年(1905年)に完成した4号ドックに入らない艦船の建造も始まったため、明治44年(1911年)7月には5号ドックの建設が開始されることになった。工事主任は澄田勘作が務めた。5号ドック建設前も、4号ドックと同じく建設予定地にあった丘を全て崩し、近くの海を埋め立ててドック建設予定地の整地が行われた。5号ドックの建設時はドック前面の海の締切に単層鉄矢板が用いられたとの記録が残っている。 5号ドックは建設途中に設計変更が行われ、ドックの規模が拡大されたことが明らかになっている。また設計変更は一回だけでなく再度実施された可能性もある。なお5号ドックは4号ドックと同じく、コンクリートと石造の併用であった。そして5号ドックは大正5年(1916年)3月に完成したが、新艦山城の改修工事の早期実施を迫られたため、ドック完成直後には昼夜兼行の改修工事が実施されたとの記録が残っている。 大正6年(1917年)、日本海軍は長門型戦艦の長門を起工した。続いて大正7年(1918年)には、長門型戦艦の二番艦である陸奥の建造が開始された。このような中で完成間もない5号ドックは延長工事が実施されることとなった。5号ドックの延長工事は大正13年(1924年)10月に完成し、ドック長が約70メートル延長され、全長320メートルを越える規模となった。大和型戦艦が出現する以前、日本海軍の艦船で長さは空母赤城、幅は戦艦長門、そして喫水は戦艦扶桑が最大であったが、改修された5号ドックは呉海軍工廠の4号ドックとともに、それら三艦艇の修理改修に対応可能な大型ドックであった。 なお、4号ドックと5号ドックの間にあるポンプ室は、並列している4号、5号両ドックの排水を行っているが、ポンプ室の建物は大正5年(1916年)の5号ドック完成当時の建物をそのまま使用しており、鉄骨で柱や梁を構築した後に壁面に煉瓦を積み上げられた鉄骨煉瓦造の建造物である。現在横須賀海軍施設内に残る鉄骨煉瓦造の建造物は、4号ドックと5号ドックの間にあるポンプ室のみであり、貴重な建造物である。
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