203高地
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 01:00 UTC 版)
203高地は要塞主防御線(西方)の2km外側に位置しており、ここの防御施設は前進陣地として築かれた。 本高地から地形上旅順港内の全域を展望できるということはロシア側も開戦前から承知していたが、予算不足で規模が縮小されたこともあり要塞防御線には組み込まれなかった。開戦後は、コンドラチェンコ少将により補強され、総攻撃開始までにかなりの防御を有するまでになってはいた。しかし他のロシア軍陣地からも距離があり戦闘中には兵力投入の移動にも危険を伴うので従来通り前進陣地として運用する予定だった。 しかしながら戦闘を経てロシア軍は方針を変更して203高地を固守するようになり予備兵力を次々とここに注ぎ込んでいった。日本軍にとって、この攻防戦に踏み切ることによりロシア軍予備兵力消耗の目的を果たした。 203高地攻防戦の終局後、ロシア側の抵抗力は著しく減衰しており、12月中旬より行われた東北面の主防御線上の攻防戦では主要三保塁と望台という重要拠点が立て続けに陥落した。要塞司令官ステッセリが降伏を決断した理由は、予備兵力を消耗したことにより戦線を支えられなくなったためである。 203高地の攻防戦については、様々な見解が語られている。特に203高地の観測所としての価値を重視する見解が多い。本防御線の外から旅順港内のロシア艦艇を砲撃する場合の観測所として本高地は最適な場所であり、攻略は早期に行われるべきだったとするものである。だが、第三軍の作戦目的は要塞の攻略であり旅順艦隊の殲滅ではなかった。実際にも総攻撃開始時点で第三軍に配備されていた重砲は最大で15センチ榴弾砲であり、戦艦を砲撃して大打撃を与える能力は持っていなかった。 大本営は203高地への攻撃を要求し続けた。大山総司令と児玉総参謀長はそれぞれ大本営と山県参謀総長に電報を送り203高地主攻に不同意を伝えた。 第1回総攻撃では第3軍は203高地を主目標とはしなかった。海軍からこの時点で203高地攻略の要請があったと小説などで描かれることも多いが実際には、この時点で203高地攻略を論じられたことはなかった。平坦部は移動中に敵に姿を曝け出し被害を増す危険があったので却下された。 陸軍側の重砲は15センチ榴弾砲16門と12センチ榴弾砲28門だが、最大の15センチ榴弾砲もこれは海軍の艦載砲より砲身も短く初速が低く艦船への攻撃力は劣る。
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203高地
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 06:23 UTC 版)
軍艦島の名の由来となった違法建築アパート群。住宅の他にも商店や工場などが入っており、現在も少しずつ広がっている。
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