1993年 - 1994年(JFL)
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「セレッソ大阪」の記事における「1993年 - 1994年(JFL)」の解説
1993年 - ヤンマーディーゼルサッカー部を母体としてセレッソ大阪が発足。12月6日 - 大阪・中之島のリーガロイヤルホテルにてヤンマーディーゼル(現・ヤンマー)・日本ハム・カプコンなどの共同出資による新運営会社「大阪サッカークラブ株式会社(英語表記:OSAKA FOOTBALL CLUB CO.,LTD)」の設立と公募により決定したチーム名「セレッソ大阪」を発表。大阪サッカークラブ株式会社の初代社長にはプロ化推進室長だった鬼武健二が就任。 1994年 - パウロ・エミリオが初代監督に就任。3月8日 - 神戸市立中央球技場(現:御崎公園球技場)にウルグアイのCAペニャロールを迎えてC大阪としての旗揚げ戦を行う。結果は 0-0 の引き分け。 10月20日 - ジャパンフットボールリーグ(JFL)の最終節前、台風の影響で延期になっていた中央防犯藤枝ブルックス(現:アビスパ福岡)戦で延長後半12分に見崎充洋が決勝ゴールを挙げて勝利して2位以内が確定。 10月23日 - JFLの最終節、コスモ石油四日市FC戦を勝利しJFL優勝を決めた。 天皇杯ではV川崎、浦和、横浜MらJリーグ勢を破って準優勝の成績を残した。
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1993年-1994年
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「ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国軍」の記事における「1993年-1994年」の解説
1993年、セルビア人勢力との間に大きな前線の変化はなかった。かわって、この年はクロアチア人勢力との戦闘が激化した。中央ボスニアやヘルツェゴビナ地方、特にモスタル周辺地域ではクロアチア人勢力との間で激しい戦闘が行われた。一方で重武装のセルビア人勢力の圧迫を受けながら、他方ではクロアチア人の武装勢力・クロアチア防衛評議会(HVO)は、それまでのセルビア人との戦いから転じてボスニア・ヘルツェゴビナ共和国軍の支配地域への進攻をはじめた。セルビア大統領のスロボダン・ミロシェヴィッチとクロアチア大統領のフラニョ・トゥジマンとの間で行われたカラジョルジェヴォ会談では、ボスニア・ヘルツェゴビナを両国が分割支配する計画について話し合われた。この計画でクロアチア人のものとされた地域がボスニア・ヘルツェゴビナ共和国軍の支配下にあったことから、クロアチア防衛評議会はこれを占領して計画を実現しようとした。クロアチア防衛評議会はクロアチア本国からの莫大な支援と、セルビア人勢力からの物資供給を受け、ヘルツェゴビナや中央ボスニア地方でボシュニャク人の市民を攻撃し、ボシュニャク人に対する民族浄化を進めた(ラシュヴァ渓谷の民族浄化など)。ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国軍は貧弱な装備のまま、クロアチア人・セルビア人の勢力に対する二正面作戦を余儀なくされ、全方面で前線の後退を許すこととなった。このとき、地理的な位置関係によって、ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国軍はクロアチア人とセルビア人によって完全に包囲されていた。武器や食糧を輸入する術もなかった。このときのボスニアを救ったのは、武器製造に転用された、巨大な製鉄・重工業の産業地帯であった。クロアチア人勢力とボスニア政府との戦闘は、アメリカ合衆国の調停によるワシントン合意が成立するまで続いた。この時点を境に、クロアチア人勢力とボスニア政府との戦いは停止し、両者は共同してセルビア人勢力との戦いに向かうことになる。 ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国軍とクロアチア防衛評議会の合同により、かつてのユーゴスラビア人民軍を引き継ぎ圧倒的に装備の面で勝るスルプスカ共和国軍に立ち向かう体制が整えられた。
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