1991年の石室撮影写真を巡る議論
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「丸山古墳 (橿原市)」の記事における「1991年の石室撮影写真を巡る議論」の解説
平成3年(1991年)、橿原市在住の児童が友人と遊んでいた際、同古墳の柵外において横穴式石室羨道への入り口を発見した。数日前の大雨で古墳の土砂が崩れて穴が露出したものである。この話を聞いた児童の父親は、5月30日早朝の出勤前に自身の子と共に羨道を通って内部に入り、カメラで石室内部を撮影した。父親から連絡を受けた大阪の朝日放送が撮影した写真の解析を、東海大学情報技術センターとコニカの共同作業によっておこなった。寸法については、撮影者の子供が写っている写真を基に解析し決定された。江戸時代の記録通りに配置されていた家形石棺はどちらも蓋近くまで泥で埋まっており、蓋に付く縄掛け突起の特長から、手前の石棺は刳抜式で6世紀の第3四半世紀に、奥の石棺は7世紀の第1四半世紀にそれぞれ造られたと推定された。花崗岩製の石室正面を巨石の重量は推定100トンを越え、石舞台古墳のそれの75トンをもしのぐ大きさと判明した。石室はその石積様式から6世紀末から7世紀初めに構築されたと考えられた。 その後、森浩一同志社大学教授(当時)が12月10日の大阪講演でこの話を取り上げ、12月26日テレビ朝日のニュースステーションの番組内においても撮影された30枚の写真が放送された。おそらくは本物の天皇陵内部を垣間見る機会を得た国民からは強い関心が寄せられた。古墳研究の専門家の間においてもこれらの写真の有する学術的価値は極めて高いと評価された。 その後、翌平成4年(1992年)8月10日から9月15日まで宮内庁書陵部による開口部の閉塞工事にあわせて簡単な実測調査が行われ、後日報告書が作成、公表された。
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