1985年シーズン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/28 00:56 UTC 版)
1985年はホンダワークスを離れ、自らのチーム(Racing team KATAYAMA)を率い、ホンダからのマシン貸与という形で新たにロスマンズのサポートを受けて従来のNS500で参戦する。片山はNS500のフレームに、HRC純正のもののほかに、RS500用のニコ・バッカー製フレームも使用した。このフレームは、キャスター・アングルとトレイルが可変式である。ニコ・バッカーは片山の注文によりフレームを作り変えを行っている。エンジンはメカニックの周郷弘貴が組み直している。周郷曰く「組み直すとバッチリ走るから。工場で組むときはそんなに丁寧でもないし、神経を使っているわけでもないから」。この年、片山は最初のレースとして4月14日に開催されるイモラ200選んだ。WGPの第1戦は3月下旬に南アフリカ共和国のキャラミ・サーキットで開催されたのだが、片山はこのレースには出場せず、片山のマネージャーのジョン・ドシォスの家でテレビ観戦していた。テレビのアナウンサーから「片山」という言葉が出ると、ジョンが同席していた泉優二に向かって次のように通訳した。「片山は南アフリカGPには(アパルトヘイトに)抗議して不参加」(ジョン・ドシォスによる通訳)。イタリアのイモラで行われたイモラ200マイルレースの第1ヒートでは、片山はエディ・ローソン、ランディ・マモラについで3位に入った。第2ヒートでは、ガソリンタンク下部の部品の取り付けの不備によりピットインしたためにタイムをロスし、6位となってしまったが、総合で3位になった。今シーズンの片山にとってのWGP第1戦目は、WGP第2戦のスペインGP(ハラマ・サーキット)である。決勝レースでは3位を走っていたのだが、11周目にクラッシュしてしまった。第6戦ユーゴスラビアGP(リエカ)では、序盤戦でフレディ・スペンサーと4位争いをしていたが、高速コーナーでローサイドクラッシュをしてしまい、肋骨と首を痛めてしまった。新型V4マシーンNSR500をはじめとするライバルに戦いを挑むも、1983年のような速さを取り戻せず、第8戦のベルギーGP(スパ・フランコルシャン)で8位入賞後、次のフランスGP(ル・マン)の予選終了後に突如として引退声明を発表。WGPより引退した。 後に「レースを走りたいと思っていない自分に気付いたから」と引退の理由を語っている。「レースに燃えるものがなくなったので」(片山敬済)とも語っている。
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