1976年 - 1979年
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「ジミー・コナーズ」の記事における「1976年 - 1979年」の解説
翌1976年、コナーズは全米オープンで3年連続の決勝進出を果たし、決勝で当時世界ランク2位のビョルン・ボルグを下し2年ぶり2回目の優勝を果たした。この年は、グランドスラムにはウィンブルドンと全米の2つにしか出場しなかったが、それでも13大会で優勝するなど依然他を圧倒する成績を残した。翌1977年もグランドスラムにはウィンブルドンと全米のみに出場し、その両方で決勝に進出した。しかし、ウィンブルドンでは ボルグに、全米ではギリェルモ・ビラスに敗れいずれも準優勝に終わった。この年、コナーズはボルグに世界ランク1位を奪われ、連続在位記録は160週でストップした。しかしわずか1週で奪い返し、そこからさらに84週に渡って世界ランク1位に君臨し続けた。この年、ボルグ、ビラスとも10大会以上で優勝を飾るなど絶好調だったが、コナーズの牙城を崩すことはできなかった。翌1978年もウィンブルドンと全米のみに出場し、その両方で決勝進出。ウィンブルドンでは前年と同じくボルグに敗れたが、全米ではそのボルグを下し、2年ぶり3度目の優勝を飾った。1979年は、全仏の出場停止が解け、6年ぶりに全仏に出場し、ベスト4の成績を残した。続くウィンブルドンでは準決勝でボルグと対戦して敗れ、3年連続でボルグに阻まれる結果となった。また5年連続で決勝進出中だった全米準決勝でもマッケンローに敗れて連続決勝進出記録が5でストップした。世界ランク1位の座もボルグに奪われ、ここにコナーズ時代が終わった。
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1976年 - 1979年
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「西城秀樹」の記事における「1976年 - 1979年」の解説
1976年2月25日、この年から作詞者に阿久悠を起用10月19日、赤坂のナイトクラブ・ニューラテンクォーターにて初のディナーショーを開催。11月3日、第2回日本武道館コンサート『ヒデキ・イン・武道館』を開催。1977年3月30日、デビュー5周年記念の第3回日本武道館コンサートを開催。7月5日 - 7月28日、ミュージカルに初挑戦。阿久悠台本・作詩、三木たかし作曲、浅利慶太演出による劇団四季『わが青春の北壁』(日生劇場)に主演、ポスター担当はイラストレーターの横尾忠則(雑誌では8ページの内6ページが横尾忠則のイラストという記事もあった)。8月27日、第4回大阪球場コンサートを開催。11月3日、この年2度目となる第4回日本武道館コンサートを開催。11月20日、NHK『ビッグショー』に出演(タイトルは『若さを誇らしく思う時に』)。 1978年2月9日、元旦発売の『ブーツをぬいで朝食を』が『ザ・ベストテン』で第1位を獲得。 1978年7月22日、従来の大阪球場に加え、東京の後楽園球場でも第1回コンサート『BIG GAME'78 HIDEKI』を開催。8月26日、第5回大阪球場コンサート『BIG GAME'78 HIDEKI』を開催。同年12月19日発売の『ブルースカイ ブルー』は、『ザ・ベストテン』で14週ベストテン入りし、年間ベストテン第9位を獲得し、『FNS歌謡祭'78』では初の最優秀歌唱賞を受賞。 1979年1月4日 - 1月6日、大阪・厚生年金ホールにて新春コンサートを開催。同年2月21日発売の『YOUNG MAN (Y.M.C.A.)』は、80.8万枚のセールスを記録し、西城自身最大のヒット作となる。年末の賞レースでは、第10回『日本歌謡大賞』、『FNS歌謡祭'79』、第5回『日本テレビ音楽祭』、『'79 あなたが選ぶ全日本歌謡音楽祭』でグランプリを獲得。
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