1971-2000 - タイモン・ドッグ
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「タイモン・ドッグ」の記事における「1971-2000 - タイモン・ドッグ」の解説
1971年、タイモンはジョン・グレアム・メラー(ジョー・ストラマー)と友人になる。彼等は他の数人と、ロンドンのパルマース・グリーン、アッシュグローヴ18番地(ヴォミット・ハイツとして知られる)でフラットを共有した。1971年9月、ヴォミット・ハイツの面々と仲間たちはハレスデン、リドリー・ロード34番地のフラットに引っ越した。 1972年の春、タイモンとメラー(ニューポート・カレッジ・オブ・アートを中退し、5月にロンドンに戻っていた)はロンドン地下鉄で夜通しバスキングを行う。22歳のタイモンと20歳のメラーはグリーン・パーク駅やヨーロッパ中でバスキングをした。この時期、タイモンはメラーに重大な影響を与えた。左利きのメラーに右構えでウクレレのコードを弾くように教え、これが後にザ・クラッシュでギターをかき鳴らすスタイルへと繋がっている。 1972年4月にリドリー・ロード34番地のフラットを追い出され、ロンドンのマイルス・ビルディングにフラットを移した。しばらくはリドリー・ロードの面々も一緒にいたが、そのほとんどは1972年にドーセットのブランドフォード・フォーラムにある農園に移った。 1973年、タイモンは初めてヴァイオリン・ライヴを行った。この頃、タイモンは名を“タイモン・ドッグ”に変えた。1974年、彼はロンドンのマイダ・ヒル、チッペンハム・ロード23番地の“ショートライフ”ハウスに何人かと住んでいた。ジョン・メラーもニューポート・アート・スクールを去った後、ここに住んでいる。 1975年と1976年、タイモンはメラー(この時にはジョー・ストラマー)のパブ・ロックバンド、The 101'ersのライヴ・サポートを行った。タイモンは101'ersが結成されたチェリー・ピッグ・ドッグ・クラブの常連であり、時々ジャムにヴァイオリンで参加した。ストラマーは結局1976年に101'ersを去り、ザ・クラッシュに加わる。 1976年、タイモンは初のフルレングス・ソロアルバム『タイモン・ドッグ』(『アウトロー・ナンバー・ワン』として知られる)を発表。このアルバムはわずか500枚のみプレスされた。このアルバムで彼はピアノ、ヴァイオリン、ギター、ヴィオラ、チェロ、マンドリン、ハーモニカ、グロッケンシュピール、ハーモニウム、ショーム、シンバルといった楽器を一人で演奏した。1977年末、フォーク・パンク・トリオ“ザ・フールズ”をドラムのリチャード・デュダンスキ、ベースのロン・ハーヴェイと結成した。 1980年にザ・クラッシュは4作目のアルバム『サンディニスタ!』を発表。タイモンは「ルーズ・ザ・スキン」を作曲し歌とヴァイオリンも担当しただけではなく、エレクトリック・レディ・スタジオで「ライトニング・ストライクス」にヴァイオリンのオーヴァー・ダブも追加した。『サンディニスタ!』のレコーディング中ミック・ジョーンズはエレン・フォーリーの2作目のアルバム『スピリット・オヴ・セントルイス』の制作もしておりタイモンの書いた3曲がこのLPで使用された。 『サンディニスタ!』レコーディングの最終段階でイングランドのウェセックスに戻り、タイモンとストラマーはブルームズバリー、ギルバートプレイスにジョージア王朝風のスクワットを見つけた。彼等はそこでタイモンの後のパートナー、ヘレン・チェリーと暮らした。 1981年から1982年には、タイモンはイアン・ハンターの『双璧のアウトサイダー』でヴァイオリンを弾き、1982年に自身の2作目のアルバム『バトル・オヴ・ウィルズ』を出している。また彼はクラッシュの『コンバット・ロック』でピアノも弾いている。自身の3作目はストラマーとグリン・ジョーンズのプロデュースで制作されたが、リリースされることは無かった。1984年にはポイゾン・ガールズのEP「プライス・オヴ・グレイン」でヴァイオリンを弾いている。その後ヘレン・チェリーとフルジヴォアズというデュオを結成し、1987年にアルバム『ニュー・エイジズ・ソングズ』とシングルを発表した。ソロアルバムの『リレントネス』も1989年に発表した。
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