1947-1957: インディ500
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「メルセデス・ベンツ・W154」の記事における「1947-1957: インディ500」の解説
第二次世界大戦後、ラングが1938年のコッパ・チアーノで使用したシャシー番号9のW154がチェコスロヴァキアで発見された。この車両は米国でレースチームを運営していたダン・リーに売却された。インディ500は1938年にルールを改正し、ヨーロッパのグランプリ・マシンもレースに参加可能となっていた。 そして1947年、リーは購入したW154をデューク・ネイロンをドライバーとしてインディ500に出走させた。 ネイロンはオッフェンハウザーのメカニックライリー・ブレットがメルセデスのエンジンの図面を所持していることを発見し、そのコピーを基にエンジンの準備を行うことができた。メカニックはエンジンを始動させることには成功したものの、アイドリング状態で放置したために燃料がインテークマニホールド内で結露を起こした。エンジンが傾斜した状態で台上に置かれていた為に結露した燃料が流れ込み、後部のシリンダーが燃料に浸されたことでコンロッドとピストン1つが破損した。レースに間に合うように新たなピストンが急造された。 ネイロンが予選時に出したスピードは全体で2番目に速いものだったが、インディ500の複雑な予選方式のためグリッド位置は18番手に留まった。決勝レースでは交換したピストンが119週目にトラブルを起こしてリタイアに終わった。 1948年に向けてはネイロンに替わって前のシーズンに一度もシートを得ることが無かったラルフ・ヘップバーンがドライバーとして起用された。しかしヘップバーンはルー・ウェルチのチームでNOVI搭載車をドライブすることになり、代わりにウェルチのチームのチェット・ミラーがNOVIエンジンへの不満もあってダン・リーのW154をドライブすることに合意した。ミラーは予選を19番手で通過したが、レースでは序盤の29週目にリザーブのケン・ファウラーと交代した。ファウラーも50週目にルイ・トメイと交代し、トメイは108週目に燃料系のトラブルでレースを終えるまで走行を続けた。 ダン・リーは1949年にW154を別のチームオーナーのジョエル・ソーンに売却した。ソーンはメルセデスのオリジナルのエンジンを取り外し、替わりに直列6気筒の’’スパークス’’エンジンを取り付けた。これを受けてW154のボンネットを作り直す必要が生じた。ソーンは自らの手で予選に挑んだが、予選通過に失敗した。 1949年のレースにはアルフレート・ノイバウアーが来場し、インディ500へのメルセデス・ベンツのワークス参戦の実現可能性を探った。ルー・ウェルチのNOVIエンジン(英語版)搭載車を視察したノイバウアーはそこで得た情報を持ち帰り、メルセデスはそれに基づいてW154のオーバル・レーシングへの応用を試みた。1951年のインディ500に参戦することが開発の目標となった。1951年にはアルゼンチンで行われた2つのレースにメルセデスのマシンが参戦し、2レースとも2位でフィニッシュしたが、最終的にメルセデスはこの計画を中止した。 ダン・リーが所有していたW154は1957年のインディ500に再び姿を見せた。今やエドワード・シュリーヴの手にあったこの車両にはジャガーの直列6気筒エンジンが搭載されていた。ダニー・クラディスがこの車両で予選突破に失敗し、インディ500でのW154の歴史は幕を閉じた。
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