1939年・死亡事故
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 14:45 UTC 版)
「リチャード・シーマン」の記事における「1939年・死亡事故」の解説
「1939年のグランプリ・シーズン」も参照 この年はシーマンにとっては始まりが遅くなり、5月に開催された非選手権レースのアイフェルレンネンが初戦となった。そして、6月末、ヨーロッパ選手権の初戦であるベルギーグランプリ(英語版)を迎えた。 スパ・フランコルシャンを舞台とするこのレースはスタート時は曇天だったが、レース中は断続的に続く大雨に見舞われた。ラングと首位を争っていたシーマンは、22周目のクラブハウスコーナーを高速で回ろうとして横滑りし、コース外の木に車両側部をぶつける形で時速200㎞で激しく衝突した。この時の衝撃で燃料系統が破損し、車外にガソリンが漏れて発火した。右腕が折れたシーマンは車から脱出しようにもステアリングをうまく外せず、やがて気を失い、周囲の者たちも激しい炎により救助に手間取ることとなる。最終的に勇敢なベルギー人の観客たちが火中からシーマンを救い出したが、全身のおよそ60%に火傷を負ったことは致命傷となり、シーマンは事故から6時間後の6月25日夜に死去した。26歳の早すぎる死だった。 23周目、ラ・ソースのヘアピンカーブのすぐ手前で不幸なできごとが発生した。シーマンは滑りやすい危険なカーブにオーバースピードで突っ込んだ。車輪が走路の縁の路面のゆるんだところに乗ってスキッドを始め、すごい勢いで後ろから樹にぶち当たり、それから横向きになってまた樹に当たった。車は四輪を地面につけたままで停止した。衝突のショックで燃料パイプが破れ、燃料が灼熱した排気管の上に流れ出した。数秒後には、車体は炎に包まれていた。恐らくシーマンは逃げ出そうとしたのだろう。しかし、後でわかったところでは、彼は腎臓にひどい負傷をし、右腕の骨も折れていた。また、彼はショックで意識を失い、空気が揺れ動くのも、ひどい熱にも気がつかなかったものとみられる。 —『カラツィオラ自伝』中の「シーマンの死」より 病院で意識を回復したシーマンは、死の床に見舞いに訪れたルドルフ・ウーレンハウトに「(雨の中)速く走りすぎた。完全に私のミスだった。すまない」と詫びたという。また、妻のエリカに対しては「こんな脅かしててすまない。今晩、映画館に連れていけなくなった」と冗談を言い、自然に陽気に話そうと努めていた。 シーマンは「シルバーアロー」時代のメルセデスチームにとって、唯一のレース中の死者となった。シーマンの葬儀はその死の5日後の6月30日にロンドンで営まれ、その遺体はロンドンのパットニー・ヴェール墓地(英語版)に葬られた。
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