1890年代後半:銀貨鋳造自由化運動
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「アメリカ合衆国民主党の歴史」の記事における「1890年代後半:銀貨鋳造自由化運動」の解説
1896年の大統領選挙に向け、民主党内では銀貨鋳造自由化(英語版)と重農主義を唱える反クリーブランド派が各州で主導権争いに勝ち、イリノイ州とミシガン州は完全に掌握、オハイオ州、インディアナ州、アイオワ州などでは多数派の地位を獲得した。クリーブランド派はわずかにウィスコンシンとマサチューセッツの2州を確保しただけだった。反クリーブランド派は民主党全国大会で3分の2近くの票を獲得し、独自の候補を指名することを可能にした。しかしながら、彼らは団結しておらず、また主導者であったイリノイ州知事のジョン・ピーター・オルトゲルドは、ドイツ生まれのため、大統領候補にはなれず、国政に出馬できる指導者が不在だった。 民主党は結局、人民党の候補で、銀貨鋳造自由化を公約とする雄弁家ウィリアム・ジェニングス・ブライアンを指名した。これは銀貨を鋳造すれば、市場に大量の貨幣が流入し、不況を終わらせられるという発想であった。ブライアンは金本位制支持者に対抗して新しい方式の大規模キャンペーンを展開し、いわゆる「金の十字架演説」により各地で一夜にして旋風を巻き起こした。中西部と東部を特別列車で縦横に移動しながら、500回以上にわたり、数百万人に向けて演説を行ったのである(ブライアンは1860年以降、地方遊説を行った最初の候補であった)。セントルイス市では、労働者層を主な聴衆に、1日に36回の演説を市内各地で行った。民主党系新聞の大半はブライアンに敵対的であったが、ブライアンは連日、東部の富裕層にとって衝撃的な方策を繰り出し、新たなニュースを生み出すことでメディアを支配した。南部と中西部の農民は、ブライアンの演説にかつてないほど熱狂した。他方、ドイツ系やアイルランド系等の少数派民族出身の民主党員はブライアンを警戒し、恐怖を感じた。中産階級の会社員、新聞編集者、工場労働者、鉄道労働者、豪農たちも一般的にブライアンのキャンペーンを拒否した。ウッドロウ・ウィルソンやフレデリック・ジャクソン・ターナー等、金本位制を支持するブルボン民主党員は、共和党候補への投票は選択せず、国民民主党(英語版)(金民主党)を結党した。 共和党の大統領候補ウィリアム・マッキンリーは金本位制に基づいて繁栄を取り戻し、産業と鉄道と銀行を支えることを約束し、すべての集団に利益をもたらす多元主義を提唱した。ブライアンは選挙でマッキンリーに大敗したが、民主党の多数派の心をつかみ、1900年と1908年の大統領選挙でも候補として指名された。1924年になってもブライアン人気は根強く、ウィリアムの弟チャールズ・W・ブライアン(英語版)が民主党大統領候補として指名された。
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