1890年から解散まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/26 06:56 UTC 版)
「タマニー・ホール」の記事における「1890年から解散まで」の解説
タマニー・ホールは市はおろか州政にまで影響力を保っていたため、幾度かの逆風にもかかわらず生き延び、繁栄の限りを尽くした。1896年の市長選でウィリアム・ジェニングス・ブライアンが勝利し野党に回ったのを除けば、ジョン・ケリーやリチャード・クロッカー、チャールズ・フランシス・マーフィーおよびティモシー・サリヴァンらの下で民主党市政は安定期を迎える。 しかし1901年、反タマニー陣営が改革派の共和党候補セス・ロウを擁立し当選、一方ホールでは翌1902年から彼が1924年に死ぬまでマーフィーがボスを務めた。これに追い討ちをかけるかの如く、1932年にはマシーン政治に衝撃を与える2つの出来事が発生した。現職のジミー・ウォーカー市長が解任され、同じく民主党でも改革派寄りのフランクリン・デラノ・ルーズベルトが合衆国大統領に初当選を果たしたのである。ルーズベルトは当選早々、ホールに対する政府の支援を打ち切り(その分ニューディール政策関連の政府支出が増大したが)、翌1933年の市長選挙では共和党のフィオレロ・ラ・ガーディア候補を支持し、勝利に導く。ラ・ガーディアは従前の「改革派」市長ですら成し得なかった手口でタマニー派を少数派に追い込んだのが奏功し、1937年、1941年の各市長選で当選を重ね、初めて反タマニー派が再選されることとなった。 それまで政府への口利きや雇用利権などで政治への影響力を行使してきたタマニー・ホールは、この間衰微の一途を辿った。公共事業促進局(WPA)や市民保全部隊(CCC)などのニューディール政策に伴う救済プログラムにより、連邦政府は雇用や公共事業の利権を各地のマシーンから取り上げたが、タマニー・ホールはかろうじてこれらを支持者の獲得やつなぎ止めに利用してきた。しかし1940年以降はこれらのプログラムも先細りとなり、存立基盤すら危ういものとなった。クリストファー・D・サリヴァン下院議員は崩壊に瀕したタマニー・ホールにおける最後の「ボス」の一人であった。その後も往時の勢いを取り戻すことが出来なかったものの、1950年代初頭に入ると、カルミネ・デサピオ会長の下で一定程度ではあるが勢力の回復がなされた。デサピオは1953年の市長選でロバート・ワグナー・ジュニアを、翌1954年の州知事選ではW・アヴェレル・ハリマンをそれぞれ当選させた。なお、1954年には州政府の司法長官のポストを巡って、特にフランクリン・デラノ・ルーズベルト・ジュニアほか対立陣営から組織的な妨害を受けている。 また、再興の裏でエレノア・ルーズベルトはこの時期、ハーバート・レーマンおよびトマス・フィンレターと組んで、タマニー・ホール内主流派を追い落とすべくニューヨーク民主党有権者委員会を結成した。1961年にはデサピオを会長の座から引き摺り下ろすことに成功したものの、かつては強力なマシーンを担ってきたホールも政治的影響力が急速に衰え、1960年代半ばに解散した。
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