18世紀:実質的な植民地化の開始
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「フランス領ルイジアナ」の記事における「18世紀:実質的な植民地化の開始」の解説
1701年、フランス人アントワーヌ・ド・ラ・モトが現在のミシガン州デトロイトの地に砦を建設した。当初、その植民地は海軍大臣ポンシャルトラン伯ルイ・フェリポーに因んで、デトロイトのポンシャルトラン砦と名づけられた。ラ・モトは毛皮の交易がイロコイ族やイギリス人商人の手に渡ることを阻止しようと考えた。また、デトロイトでインディアンとの同盟を進め、彼らとの同化を進めようとしていた。ラ・モトは100人の人々、半分は開拓者、半分は兵士、それに2人の宣教師と共に1701年6月5日にモントリオールを出発した。6月24日、目的地に到着した一行は直ぐに砦の建設を開始した。これに先立つ1698年、ピエール・ル・モアン・ディベルビーユがラ・ロシェルを出て、ミシシッピ河口のあたりを探検していた。ディベルビーユはフランスに帰る前にモーレパと呼ぶ心許ない砦をビロクシに建設した。ディベルビーユはメキシコ湾に2度戻り、1702年にはモービルの砦を建設した。ディベルビーユは1699年から1702年までルイジアナの知事を務め、彼の弟が1702年から1713年まで後を継ぎ、またディベルビーユが1716年から1724年までと1733年から1743年まで知事を務めた。1718年、ジャン=バティスト・ル・モワン・ド・ビエンビーユがルイジアナの遠征を命じた。ビエンビーユはニューオーリンズ市を建設し、摂政のオルレアン公に敬意を表して市の名前を付けた。建築家のアドリアン・ポージェがニューオーリンズのフレンチ・クオーターの都市計画図を作った。 1713年のユトレヒト条約でスペイン継承戦争が終結した。これは、ルイジアナにおけるフランスの力の弱化の始まりでもあった。ルイ14世はその孫であるフェリペ5世がスペイン王家を継がせることに成功したが、フェリペ5世はフランスの王位継承権を放棄していた。さらにアカディアと西インド諸島の植民地が幾つか失われた。ルイジアナはフランス領として残ったが、北アメリカのイギリス植民地からの増大する影響が懸念された。フランス国王はこの影響をアパラチア山脈の東に押し込めておこうとして、ルイジアナの西に位置するニュースペインとの同盟を試みた。この政策は家族の絆で正当化されるものであるが、スペイン植民地の鉱物資源や貿易の促進という思惑もあった。ルイ14世は西方への探検を奨励した。1714年、ルイ・ジュシュリュー・ド・サンデニがレッド川を航行し、リオ・グランデ川まで行き着いた。同じ年、エチエンヌ・ド・バニアールがミズーリ川を航行した。フランスの影響力の範囲は相当に拡がってきており、これらの航行はアメリカ西部への探検の基礎となった。
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