1540年の「マビラの虐殺」
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「エルナンド・デ・ソト」の記事における「1540年の「マビラの虐殺」」の解説
遠征隊が冬を過ごしたフロリダのパンハンドル西部の場所から、「太陽が昇る場所」で採掘される金のことを聞き、ジョージアとサウスカロライナを通って現在のサウスカロライナ州コロンビアへと北東に向かった。そこであるインディアン部族を訪ね、女性の酋長に快く迎えられた。彼女は遠征隊に部族の真珠や食物などを提供した。しかし黄金はなく、フアン・パルド (Juan Pardo) による、以前の沿岸部のスペイン人遠征の断片の他は見つけることができなかった。 デ・ソトはノースカロライナのアパラチア山脈に向けて北進し、部下が金を探している間、一ヶ月間馬を休ませた。次にテネシーとジョージア北部に入り、そこでさらに一ヶ月を費やした。その後メキシコ湾へと南へ向かい、ハバナからの新しい荷物を積み込んだ彼の2隻の船と会った。 道中のアラバマ中央部で、デ・ソトはインディアンの砦村のマビラに到達したが、タスカルーサたちモービル族(チョクトー族かクリーク族の支族と見られる)の戦士団によって攻撃を受けた。なんとかその攻撃をかわして進軍し、都市に火を放った。この9時間の間、20名の隊員が死亡したほか、多くが負傷し、翌数週間で20名以上が死亡した。2000名~6000名ほどのモービル族戦士たちは、ソトの軍隊の放った火と戦いで皆殺しにされた。ソトの部下のルイス・ビエドマは1544年、以下のように書き残している。 「我々はマビラの町に入って火を放ち、インディアンどもを焼き殺して略奪した。後には何も残らなかった。我々は夕暮れ時までこの戦を続けたのだが、一人だけ降伏を拒否してライオンのように戦った勇敢なインディアンがいた。我々は、火、あるいは剣、またはインディアンと同じように槍で、インディアンども全員を殺した。 ほぼ日が暮れた頃、生き残ったインディアン戦士はわずか3人だった。そして、20人の女たちが連れてこられて前で降伏の踊りを踊り、戦士たちは腕を組み、殺すなら迎えに来い、と合図した。宣教師が女たちのほうに進むと、彼女らは脇に回った。そして、我々は生き残りのインディアン戦士のうち二人を殺した。残った三人目の戦士は、我々を狙って矢を撃ってきた。この最後のインディアンは、降伏を拒否して、砦の柵の内側にあった木によじ登り、自分で自分の首に縄を結んで首を吊った。」 遠征隊はインディアンを倒したが、所有物の大半と40頭の馬を失った。彼らは負傷したり、病気にかかったりし、見知らぬ土地で武器も持たず敵に囲まれた。彼の部下がモービル湾の船に到達してスペインにこのうわさが流れることを恐れ、デ・ソトはメキシコ湾岸から彼らを遠ざけてミシシッピに入り、恐らく現在のトゥペロの近くで冬を過ごした。
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