1541年から1844年まで
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「ダラム・スクール」の記事における「1541年から1844年まで」の解説
1541年、宗教改革による修道院の解散を受けて、ヘンリー8世により再設立された。敷地は従前のままで、校長であったヘンリー・スタッフォードも留任した。1640年には古い校舎がスコットランド人らによって完全に破壊され、当時の校長リチャード・スメルトはイージングウォルドにあった自身の牧師館に引退することになった。そして、ダラム・スクールは1652年から1653年まで議会に委任されることになった。校舎は破壊されたものの、教育は市内にあった寄宿舎で続けられた。 1661年にダラム・スクールは現在ダラム大学音楽校がある場所(パレス・グリーンの北西側)に移転した。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}18世紀のダラムには教育への熱意があった。1661年にパレス・グリーンに再建されたダラム・スクールは、その後すぐに、地方のグラマー・スクールから、北部でも確かな定評と大きな影響力を持つパブリック・スクールとなった。我々は、その復興の足跡をサルヴァン(英語版)、ウィルキンソン、ハッチンソン、ブラキストン、フォーセット、バウズ、カルヴァリー、コールといった馴染みのある都市の名に辿ることができる。ダラム・スクールの大きな栄達の一つは、緑の中の古い学校が紡いできた由緒に鼓吹された地元史学者や古美術家の継続的な活動である。中でも最も著名なのはジェームズ・ミクルトン(英語版) (1638年–1693年)であり、彼なくして中世あるいは17世紀のダーラムの歴史を語ることはできない。地域の歴史を紐解く者は、修道院解散に際して大聖堂の蔵書を維持するため善処を尽くしたことで名高いエリアス・スミス(校長:1640年-1666年)や大聖堂の写本の目録を作成したトーマス・ラッド(校長:1691年-1699年、1709年-1711年)に非常に多くを負っている。その後、これらは地史作成のため膨大な資料蒐集を行ったトーマス・ランドール(英語版)(校長:1761年–1768年)まで受け継がれている。(仮訳) —William Page、The city of Durham - Introduction (3 of 3) 1928.
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