1544年のシュレースヴィヒ・ホルシュタイン両公国分割
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「ホルシュタイン公国」の記事における「1544年のシュレースヴィヒ・ホルシュタイン両公国分割」の解説
1544年、フレゼリク1世の息子クリスチャン3世は、シュレースヴィヒ公国およびホルシュタイン公国の領域を二人の異母弟(ハンス(老公)とアドルフ)とともに3分割し、3兄弟が両公国の共同支配者となった。クリスチャン1世の異母弟たちは領土分割に際してデンマーク王位継承権を放棄した。 デンマーク王領(Holstein-Glückstadt)。クリスチャン3世が保持した領土で、その子孫である歴代のデンマーク王(オルデンブルク家)によって継承された。首府ははじめホルシュタイン南東部のゼーゲベルク(Segeberg)に置かれた。1640年にシャウエンブルク家のホルシュタイン=ピンネブルク伯が断絶すると、その領地を王領に併合している。 1648年、デンマーク王フレゼリク3世は、シュレースヴィヒおよびホルシュタインにおけるデンマーク王領の統治の拠点をグリュックシュタット(Glückstadt)に移した。このため王領はシュレースヴィヒ=ホルシュタイン=グリュックシュタット公国と呼ばれるようになった。 1773年の時点で、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=グリュックシュタット公国のホルシュタイン地方における領域は、現在のレンズブルク郡(Rendsburg)、ディトマルシェン郡(Dithmarschen)南部、シュタインブルク郡(Steinburg)、ゼーゲベルク郡(Segeberg)、プレーン郡(Plön)に広がっていた。 シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ハーデルスレーベン公国(Schleswig-Holstein-Haderslev)次弟ハンス老公(de:Johann II. (Schleswig-Holstein-Hadersleben))に与えられた領土。首都はシュレースヴィヒ地方のハザスレウ(ハーデルスレーベン)。しかし1580年にハンスは継嗣のないまま死去したため、公国は王領とシュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゴットルプ公国によって分割された。 シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゴットルプ公国三弟アドルフに与えられた領土。シュレースヴィヒ地方南部の都市シュレースヴィヒ近郊にあるゴットルプ(ゴットルフ)城(Gottorf Castle)が居館であり、これを家名とした。 この一族(ホルシュタイン=ゴットルプ家)からはのちにスウェーデン王室(ホルシュタイン=ゴットルプ王朝、1751年 - 1818年)、ロシア皇室(ホルシュタイン=ゴットルプ=ロマノフ王朝、1792年 - 1917年)が出ている。 領土の分割は税収が平等になるように行われた。また、ホルシュタイン地方の少なからぬ部分(主にバルト海沿岸)は、グリュックシュタット公国とゴットルプ公国が共同で行政を行う形がとられていた。 その後、クリスチャン3世の末子ハンス若公が「シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク公」と称しているが(この家系はゾンダーブルク家と呼ばれる)、ゴットルプ公のように両公国の共同支配者という格は与えられず、領邦としての実質もなく公爵の称号も形式的なものであった。このような「公爵」は Abgeteilte Herren と呼ばれる(ゾンダーブルク家の記事を参照)。その後もオルデンブルク家の傍系からは「シュレースヴィヒ=ホルシュタイン」を冠した家名を持つ多数の Abgeteilte Herren が生まれた。このゾンダーブルク家の分枝のひとつには、ホルシュタイン地方のグリュックスブルクを家名に持つグリュックスブルク家があり、現在のデンマーク王家(1863年以後)・ノルウェー王家(1905年以後)につながる家門となっている。
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