11試合連続完投勝利
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 09:26 UTC 版)
1989年5月10日に行われた対横浜大洋ホエールズ戦、この試合は斎藤にとって連続完投勝利記録の1試合目であり、後年出版された『日本野球25人 私のベストゲーム』で斎藤自身が「最も記憶に残る試合」として選んだものである(この節の出典は、特記がない限り同書にもとづく)。 斎藤は5月7日の対広島東洋カープ戦(広島市民球場)で先発登板したものの、いきなり広島打線に捕まり、被安打3・与四死球2の3失点で、2回表に回った打順で代打を送られて降板、翌日の朝日新聞は「汗もかかずに降板」と書き立てた。この直後、5月10日の横浜大洋ホエールズ戦(横浜スタジアム)の先発を言い渡された。通常、先発投手はシーズン5 - 6人程度でローテーションが組まれるが、中2日で登板することはいわゆる「瀬戸際」で、斎藤自身も前年に出身校である市立川口高校のマネージャーだった女性と結婚したばかりで、奮起すべき材料はいくつもあったということである[要文献特定詳細情報]。 10日の試合で、巨人は8回表まで5対1とリードしていたが、8回裏に1点差に迫られ、さらに同点・逆転のピンチを迎えた。斎藤は交代を願う気持ちもあってベンチを見たが、藤田は交代の動きを示さなかった。結局、斎藤は代打の加藤博一を打ち取り、ピンチを脱した。この後、斎藤は、9回裏を無失点に抑えて、シーズン3勝目を挙げた。試合後、藤田は「(9回に)走者が出たらリリーフを出そうと思っていた」と述べ、斎藤は「最後まで投げさせてくれるんだな、とうれしかった」とコメントしていた。 この試合における藤田の8回の判断については、5月11日付読売新聞は、「『粘れ斎藤!』藤田監督辛抱の続投 大成期待8回ピンチにも動かず」と比較的大きく取り上げたが、同日付の毎日新聞(上記)の扱いは小さく、朝日新聞、日本経済新聞では触れられず、当時の注目度は大きいとは言えなかった。なお、この試合の敗戦投手は、大洋の先発斉藤明夫であったため、朝日新聞、毎日新聞は、「斎藤対決は巨人に軍配」と報じた。 登板日対戦チーム球場投球回自責点5月10日 5 - 4 大洋 横浜 9 2 5月17日 5 - 2 中日 平和台 9 2 5月24日 6 - 1 ヤクルト 東京D 9 1 5月30日 7 - 0 大洋 新潟 9 0 6月4日 10 - 0 阪神 東京D 9 0 6月10日 6 - 0 ヤクルト 神宮 9 0 6月16日 2 - 1 中日 東京D 10 1 6月24日 3 - 1 阪神 甲子園 9 1 7月1日 10 - 1 ヤクルト 神宮 9 1 7月8日 7 - 2 大洋 横浜 9 2 7月15日 6 - 0 ヤクルト 東京D 9 0
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