第2期巨人監督
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1988年9月29日、監督だった王貞治が解任されたことを受け、務臺光雄読売新聞名誉会長から「老い先短い年寄りの願いを聞いてくれ」と懇願され、第12代監督として復帰する。前年までに心臓を患い、医者から「(監督就任しても)命の保障はない」と告げられるほどだったが、ニトログリセリンを常備しながら采配を振るった。 就任後、マンネリ化したチームを活性化させる方策として原辰徳を三塁から左翼へコンバートし、空いた三塁には中畑清を一塁から三塁へコンバートした(中畑の故障離脱により、岡崎郁が三塁に定着)。素質がありながら伸び悩み、気弱な面のあった斎藤雅樹に「お前は気が弱いんじゃない。気が優しいんだ。弱いと優しいは、全然違うんだぞ」と何度も言い聞かせ、先発として一本立ちさせた。斎藤はこの年に11試合連続完投勝利のプロ野球記録を樹立するなど20勝を挙げ、桑田真澄、槙原寛己ともに巨人の先発の柱としてチームを支えることになる。就任1年目でリーグ優勝し、近鉄バファローズとの対戦となった日本シリーズは、開幕から3連敗するが第4戦から4連勝し、チームとしては1981年以来8年ぶりの日本一を達成した。 1990年は開幕から独走し、9月8日には2年連続でリーグ優勝を決定した。最終的には88勝42敗、2位の大洋に22ゲーム差の大差をつけた。斎藤・槙原・桑田に宮本和知・香田勲男・木田優夫を加えた先発ローテーションの6名でチーム88勝のうち、80勝を挙げ、完投数は合計で70に上った結果、年間で起用した投手は僅か10人であった。しかし、日本シリーズでは投手陣との関係悪化もあり(後述)西武にストレートの4連敗を喫して敗退した。 1991年は一転してBクラス(4位)に転落。同年シーズン中には藤田の最大のパトロンであった務臺名誉会長が逝去。1992年は5月に最下位に転落するなど開幕当初は低迷したが、抑えに抜擢した石毛博史、西武からトレードで獲得した大久保博元の活躍もあって7月には首位に浮上。ヤクルト、阪神と優勝争いを繰り広げたが2位に終わり、この年限りで退団した。
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