第2期幕領時代(1856年 - 1868年)
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「遠国奉行」の記事における「第2期幕領時代(1856年 - 1868年)」の解説
後期幕領期には箱館通宝の発行が行われ、前期同様道路開削も行われた。また蝦夷地で流行する疱瘡対策として土人への種痘なども行った。ちなみに土人とは、「土地の産物」を意味する「土産」と同様、当時「土地の人」や「土地で生まれ育った人」の意味で用いられた言葉で、蝦夷から改称当時の呼称。いまでいう「地元の人」的な意味合いの漢語である。 幕末の箱館開港を機に、乙部村以北と木古内村以東の和人地と全蝦夷地(北州)が再度上知され、安政3年(1856年)再び箱館に箱館奉行が置かれる。開港地箱館における外国人の応対も担当した。定員は2 - 4名で、内1名は江戸詰となる。役高は2,000石で、役料1,500俵、在勤中の手当金700両が支給された。支配組頭に任ぜられた向山源太夫は樺太の調査を行い、その帰途に病死している。このとき配下の松浦武四郎も同行。安政4年(1857年)には、村垣範正が着任、桑田立斎ら種痘の出来る医師が派遣され、アイヌの間で蔓延する天然痘の対策をおこなった。また、村垣は樺太における国境の交渉に備え、日本の行政の北限の確認をおこなっていたが、安政2年(1855年)締結された日露和親条約では、国境は棚上げ先送りとされている。奉行所は、最初は前回同様宇須岸館跡に置かれたが、元治元年(1864年)奉行所を五稜郭へ移転した。このころ、アイヌの呼称が「蝦夷」から「土人」に改称された。
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