1年目の成功
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/09/06 18:09 UTC 版)
1964年、アーネスト・フェローズ調教師(Ernest Fellows、あるいは“Ernnie” Fellows)から、ヨーロッパ競馬での騎乗依頼が来た。オーストラリアからヨーロッパへ移って活躍している騎手は既に何人もおり、フェローズ師もオーストラリア出身の調教師である。フェローズ師は必ずしも多くの管理馬をもつ有名調教師ではなかったが、パイアーズは招聘を快諾してフランスへ渡った。フランスへ到着したパイアーズ騎手を待っていたのは、気性の難しい3歳馬だった。 その若馬はアメリカのケンタッキー生まれの荒くれ馬で、1958年にアメリカの年度代表馬になったラウンドテーブルの初年度産駒だった。ネヴァートゥーレイトで既にヨーロッパ競馬で成功したアメリカの牧場主ハウエル・ジャクスン夫人が自ら生産し、ヨーロッパへ送り込んできた馬で、*ボールドリック(Baldric)と命名されて2歳戦に出たが、フェローズ調教師自身が「気違い」と評した気性難のため成績はいまひとつだった。 3歳になったボールドリックはフランスのジェベル賞で2着になったあと、パイアーズ騎手とのコンビでイギリスへ遠征し、2000ギニーに出た。この年はイギリスのクラシック戦の賞金が大きく引き上げられた年で、2000ギニーの賞金も4万ポンドあまりとイギリス競馬史上最高額になった 。ボールドリックは人気薄だったが、パイアーズ騎手はボールドリックを気分よく走らせ、優勝に導いた。長い歴史のなかでも、外国馬がイギリスのクラシック競走を勝ったのは史上5頭目だった。しかしそんなことより、アメリカ人馬主で、アメリカ産馬で、フランス調教馬で、オーストラリア人が騎乗という、イギリスからみるとせっかくの最高賞金競走を完全に外国勢にもっていかれたことになり、イギリス人を大いに落胆させた。なお、このときの2着馬はファバージで、1・2着とも後に日本で種牡馬入りして成功することになる。 ボールドリックはこのあとイギリスダービーに駒を進めたが、フランスの厩舎との往復で機嫌を損ね、ダービー当日には調子を落としてしまった。ボールドリックの成功に気を良くした他のアメリカ人たちもダービーにアメリカ馬を送り込んだので、ダービーにはアメリカ産馬が5頭も出てきた。これらを迎え撃ってイギリスのメンツを保つ役目を与えられ、イギリス人の期待を一身に背負ったのがサンタクロースで(本当はアイルランド馬で、そのうえ騎手はオーストラリア人なのだが)、イギリス人はサンタクロースを本命に支持した。ボールドリックは最後の直線で一度は先頭に立ったのだが、最後まで足が続かなかった。ゴール前はサンタクロースとアメリカ馬インディアナの争いになり、サンタクロースがこれを制した。ボールドリックは5着だった。このあとサンタクロースはアイルランドのダービーに凱旋し、57年ぶりとなる英愛ダービー連覇を成し遂げ、イギリス人の愛国心を大いに満足させた。 しかし、フェローズ調教師とパイアーズ騎手は、夏のキングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスで、すぐに逆襲を果たした。ダービー連覇の偉業を成し遂げたサンタクロースは、このレース史上最も人気を集め、単勝1.15倍の不動の本命となっていた。一方、フェローズ調教師がこのレースに送り込んだのは、やはりアメリカ産でハウエル・ジャクスン夫人の持ち馬ナスラム(Nasram)という馬で、「ペース配分の名手」と言われたパイアーズ騎手は、人気薄のナスラムでまんまと逃げ切った。このレースは「イギリス競馬史上最大の番狂わせ」と評された。 秋にもパイアーズ騎手はボールドリックでチャンピオンステークスを勝った。この結果、馬主のハウエル・ジャクスン夫人は、英国競馬史上2人目となる、女性の賞金王馬主となった。(1人目はエリザベス2世である。) パイアーズはヨーロッパの競馬がシーズンオフになるとオーストラリアに帰った。ヨーロッパでの競馬シーズンが終わる11月には、南半球のオーストラリアの競馬シーズンが本格化する。はじめのうちはオーストラリアでも騎乗したが、やがてヨーロッパでじゅうぶん稼ぐようになったあとは、オーストラリアでは休暇を過ごすようになった。
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