黒田節の逸話とは? わかりやすく解説

黒田節の逸話

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/06 07:18 UTC 版)

母里友信」の記事における「黒田節の逸話」の解説

民謡黒田節大体の内容は以下のようなのである。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}酒は呑め呑め 呑むならば 日本一ひのもといち)のこの呑み取るほどに呑むならば これぞ真の黒田武士 これは文禄・慶長の役休戦中の際の出来事由来するとされる京都伏見城滞留中の福島正則元へ黒田長政使者として使わされた友信は、正則屋敷で酒を勧められる。友信は家中でも「フカと言われるほどの酒豪の者であったが、使者である手前それを固辞した。しかし本人酒豪である正則はこれに「飲み干せたならば好きな褒美をとらす」としつこく勧め更には黒田武士は酒に弱い、酔え何の役にも立たないからだ、などと家名貶める発言をした。 そこで友信はこれを敢えて受けて大盃なみなみと注がれた数杯の酒を一気呑み干すと、褒美として、正則豊臣秀吉から拝領した日本号」を所望する正則不覚を取ることとなったが「武士に二言は無い」という言葉受けて褒美差し出した。これによって「呑取り日本号」という異名と、越天楽筑前今様)の節回し供に黒田節」として、黒田武士の意気を示す逸話として広く知られるようになった。 これによって友信は博多人形題材として多く取り上げられと盃を手にした姿で造型される。また博多駅前西公園光雲神社などにはこの逸話元にした銅像がある。光雲神社にある銅像は、博多人形師・中ノ子富貴子の作だが、中ノ子家は博多人形本家であると同時に中ノ子富貴子の母方母里家の血を引いている。一方博多駅前銅像彫刻家・米治一作よるもので、昭和45年1970年)に設置された。博多玄関口である博多駅シンボルであると同時に格好待ち合わせポイントであったが、銅像自体老朽化進行し博多駅建替え工事一時撤去された。その後JR九州保管されていたが、博多駅博多口駅前設置されていた博多節舞姿銅像とともに再び博多駅前設置された。ただし、自慢穂先が、通行人接触する恐れからか、緩衝材にて包まれた状態になっている。 なお、この日本号は後の慶長の役窮地陥った友信を救った後藤基次の手渡り、基次が出奔する際に母里家に返されとされるが、それは講談内容でありフィクションである。母里家では長らく大正時代まで家宝となっていた。その後黒田家献上される所有者転々とした後、現在は福岡市寄贈され福岡市博物館現物が、広島城レプリカ展示されている。

※この「黒田節の逸話」の解説は、「母里友信」の解説の一部です。
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