鹿児島高等中学造士館
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 09:39 UTC 版)
明治20年(1887年)12月20日、鹿児島県立中学造士館の(官立)鹿児島高等中学造士館への改編が告示、翌明治21年(1888年)4月、旧・県立中学造士館生徒を収容し開校。生徒の転籍先は、旧・県立中学造士館高等中学科卒業→本科、旧・県立中学造士館初等中学科在籍生→予科補充科。 館長は島津珍彦。課程は本科2年、予科3年、予科補充科2年の3科7年制。島津忠義らの寄付資金11万余円を元資金として、これが生み出す利息などによって運営された。中学校卒業生が不足し、定員割れが慢性化していたほか、「官立」と冠していながら国庫による支出が皆無で授業料が高く、貧困による退学者が多かった 高等中学造士館は、明治29年(1896年)まで存続したが、この学校の予科・補充科が、明治27年(1894年)に県費のみによる尋常中学校設立までの間、鹿児島県において尋常中学校の役割を果たした。 明治29年(1896年)9月3日、鹿児島高等中学造士館廃止が告示された。その理由として『鹿児島県史 第四巻』(鹿児島県編、1943年)及び『鹿児島県教育史 下巻』(前出、1961年)は「都合により」、『鹿児島市史 第三巻』(鹿児島市史編纂委員会編、1971年)は「島津忠重はこれを深く遺憾とし」と述べているが、「鹿児島学校と三州義塾 史料と政治的背景についての考察」(芳即正)には「当然運営経費の増加が見込まれ、島津家ではその負担に堪え得ないとして、明治29年度で高等中学造士館は廃止することになった」とある。廃止後、本科在籍生は第五高等学校などに転校したが、予科在籍生の転校先はなく、県庁管理による造士館復活となった。
※この「鹿児島高等中学造士館」の解説は、「中学造士館」の解説の一部です。
「鹿児島高等中学造士館」を含む「中学造士館」の記事については、「中学造士館」の概要を参照ください。
鹿児島高等中学造士館
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/27 00:19 UTC 版)
「ナンバースクール (旧制高等学校)」の記事における「鹿児島高等中学造士館」の解説
藩校造士館は明治3年(1870年)に廃校となったが、明治17年(1884年)島津忠義が県庁に委託した基金4万4621円と年々9400円ずつの定額寄金により鹿児島県立中学造士館が開設され、忠義の請願により明治21年(1888年)1月文部省管轄の官立鹿児島高等中学造士館となった。この時、島津家が「造士館」の称を留めることを強く希望したため数字を冠さなかった。島津忠義らの寄付資が生み出す利息などによって運営されたが、中学校卒業生が不足し定員割れが慢性化していたほか、「官立」と冠していながら国庫による支出が皆無で授業料が高く貧困による退学者が多かった。明治29年(1896年)9月「都合により」廃校となった(「鹿児島学校と三州義塾 史料と政治的背景についての考察」(芳即正)には「当然運営経費の増加が見込まれ、島津家ではその負担に堪え得ないとして、明治29年度で高等中学造士館は廃止することになった」とある)。明治29年(1896年)12月鹿児島県立尋常中学造士館が設立され、明治32年(1899年)4月中学造士館へと改称されたが、島津忠重が16万円の寄付と共に文部省へ誘致した結果1901年(明治34年)10月25日官立第七高等学校造士館に改組された。
※この「鹿児島高等中学造士館」の解説は、「ナンバースクール (旧制高等学校)」の解説の一部です。
「鹿児島高等中学造士館」を含む「ナンバースクール (旧制高等学校)」の記事については、「ナンバースクール (旧制高等学校)」の概要を参照ください。
- 鹿児島高等中学造士館のページへのリンク