鹿児島随一の売れっ子芸者として
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「新橋喜代三」の記事における「鹿児島随一の売れっ子芸者として」の解説
伊兵衛と別れた喜代治は一層芸に打ち込み、それに人柄も相まって人気も上昇していった。この頃、垂水市の温泉で後に「東洋のマタハリ」と呼ばれる川島芳子と遭遇している。 昭和に入ると、ますます喜代治の人気は高まり、地元の名士の宴席はもちろんのこと、鹿児島を訪れた政財界の要人の宴席には決まって喜代治が呼ばれるようになる。 1929年(昭和4年)には、鹿児島を訪れた大倉喜七郎、大川平三郎、松野鶴平、渋沢栄一らの宴席も務めており、彼らは後に喜代治が新橋花柳界に移籍してからも贔屓の客となった。 この頃、先輩芸者一八が得意とし、別名『一八節』とまで言われた『小原良節』 を直々に教わり、一八が京都へ移った事からその後継者となった喜代治は、(当時鹿児島にはNHKの放送局が無かったため)NHK熊本放送局から『小原良節』『はんや節』『よさこい』『三下り』『げんや節』などを放送して名をあげ、度々熊本放送局へ呼ばれるようになり、コロムビアからの依頼により大阪のスタジオでレコーディングも行なった。
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