帝国大学予備教育機関へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/14 00:45 UTC 版)
「高等中学校」の記事における「帝国大学予備教育機関へ」の解説
しかしながら、高等学校の「地方大学化」構想は発展をみることなく終わり、専門の「学部」は相次いで廃止・分離され、明治30年代後半までには、全てが姿を消すこととなった。すなわち、第三高等学校の法学部は1901年(明治34年)4月に廃止され、第一・第二・第三・第四・第五高等学校の各医学部も同年、それぞれ独立した官立医学専門学校とされた。また第三高等学校の工学部は同年4月に廃止され、第五高等学校の工学部も、日露戦争後の1906年(同39年)3月、熊本高等工業学校となって分離独立した。このため、「地方大学」の充実は、以後、帝国大学および官立専門学校の増設という形に転換していった。 一方、制度上は従属的な地位にあった「大学予科」は、この間に大いに発展し、当初専門の「学部」だけで出発した第三高等学校にも、1897年(同30年)4月から大学予科を設置した。このように、制度の面でも実態面でも、高等学校は純然たる帝国大学予備教育機関としての性格を強めた。 なお、山口・鹿児島の両校には、当初から専門の学部は設置されず、帝国大学予科教育に特化していたが、官立鹿児島高等中学造士館は高等学校に昇格することなく1896年(明治29年)に廃止され、官立山口高等学校は1905年(明治38年)に官立山口高等商業学校へ転換させられた。
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