帝国執行令に向けて
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/10 13:46 UTC 版)
1554年、クールライン、オーバーザクセン、フランケン、バイエルン、シュヴァーベン、オーバーラインの6つのクライスに対して、辺境伯戦争(いわゆる第二次辺境伯戦争)を引き起こしたブランデンブルク=クルムバッハ辺境伯アルブレヒト・アルキビアデスに対する帝国追放令の執行命令が出された。その遂行にあたり、8月に6クライスの合同会議が開かれることとなった。 これに最も積極的に取り組んだのがシュヴァーベン・クライスであった。その最大等族であるヴュルテンベルク公クリストフは、クライス会議に先立ち自ら執行案を作成し、クライス会議内に委員会を設け協議をさせた。その結果、16条からなる具申がまとめられ、6クライス合同会議に提出された。 ところが、クールライン・クライスは、この問題を全クライスで協議すべき問題であると主張し、審議にはいることを拒否した。そもそもクールライン・クライスは、事実上、マインツ大司教、ケルン大司教、トリーア大司教、プファルツ選帝侯の4人のライン選帝侯からなるクライスであり、他のクライスに対して優越性を主張していた。シュヴァーベン提案は、その伝統的な選帝侯の優位性を無視し、他のクライスとクールライン・クライスとを同列に扱っていたことが、その反発を招いたのであった。 こうして10月に改めて全クライスをフランクフルトに招集して開催された帝国クライス会議には、しかし、オーバーザクセン・クライスが欠席し、ニーダーザクセン、ニーダーラインの両クライスはクライスの委任を受けていない代理人を出席させただけであった。クールライン・クライス以外の出席した8クライスは、シュヴァーベン提案に基づき協議を行い、「フランクフルト草案」をまとめ上げた。一方、クールラインはこの帝国クライス会議を無効とし、この問題を帝国議会で検討することを主張した。残る8クライスはこれに反対し、この結果、翌1555年にアウクスブルクで帝国議会と帝国クライス会議を両方開催することとなった。そして皇帝カール5世の判断で、帝国議会で審議されることとなった。 1555年のアウクスブルクの帝国議会は2つの重要な決定を行った。「アウクスブルクの宗教和議」と呼ばれる宗教平和令と帝国執行令である。1552年のパッサウ条約に従い宗教平和令が先に審議された。審議方法には、三部会別方式が執られた。この方式はプロテスタントには有利に働き、アウクスブルクの宗教和議が成立したが、帝国執行令の審議にも同じ方法が適用された。三部会別方式は伝統的な選帝侯優位の審議方式であり、この結果、最終的なその内容は、叩き台となったフランクフルト草案に較べ、選帝侯優位に配慮したものに改編されていた。
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