高千穂丸の登場
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/08 23:17 UTC 版)
大阪商船は、開設期の台湾航路には3,300トンクラスの台中丸級貨客船2隻を就航させたが、日露戦争後からはより大型の客船を投入した。1910年からは笠戸丸(6,209トン)が投入され、1924年まで就航した。他にも亜米利加丸(6,030トン)、扶桑丸(8,196トン)、蓬莱丸(9,205トン)、瑞穂丸(8,511トン)などが投入されたが、これらはいずれも他の船会社や外国からの購入船だった。そこで、台湾航路用の新造船として建造されたのが高千穂丸だった。 設計に際し、大阪商船の主任造船技師だった和辻春樹は、客室部分の甲板の反りを廃止して極力水平に近づけ、居住性を高めた。三菱重工業長崎造船所での建造時には、逓信省とロイド船級協会の特別監査が入った。また、船内装飾は全面的に日本趣味様式が採用され、蒔絵や螺鈿が取り入れられた。 1934年1月31日に竣工し、2月10日に処女航海を行った。日中戦争初期の1937年8月から1938年2月には瑞穂丸とともに陸軍使用船として徴用されたが、高千穂丸はのちに航路に復帰。1941年7月26日、日本の仏印進駐に抗議する形で、いわゆるABCD包囲網が形成。アメリカ、イギリス、オランダとその属領で在外資産凍結を行ったため、海外在留の日本人は総引き揚げのやむなきに到った。9月から11月にかけて日本人引き揚げが行われ、高千穂丸は日昌丸(南洋海運、6,526トン)、富士丸(日本郵船、9,138トン)とともにオランダ領東インド在留の日本人引き揚げ船として活動した。 1942年5月、船舶運営会が設立。大阪商船の神戸・基隆航路は、ハイフォン直航線を除いた他の航路とともに運営会に移管された。また、高千穂丸の3年後に就航した高砂丸(9,315トン)は病院船として徴用されたが高千穂丸は徴用されず、同じく徴用されなかった富士丸や大和丸(日本郵船、9,655トン)とともに神戸・基隆航路に就航し続けた。
※この「高千穂丸の登場」の解説は、「高千穂丸」の解説の一部です。
「高千穂丸の登場」を含む「高千穂丸」の記事については、「高千穂丸」の概要を参照ください。
- 高千穂丸の登場のページへのリンク