高ヨンジャ説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/25 07:12 UTC 版)
英姫の日本での登録名は高姫勲(コ・フィフン、朝: 고희훈、Ko Hŭihun / Go Huihun)で、後に改名した高ヨンジャであるとする現在の説。 デイリーNKによると、彼女は1952年6月26日生まれで、父親は現在の済州市朝天邑(朝鮮語版)出身、済州高氏の高京澤(1913年生誕〜1999年死亡)で、母親は李孟仁。 高京澤の父高永玉は朝鮮王朝に仕える下級文官(従仕郎)であり、当時、経済水準の低かった済州島において比較的裕福な暮らしができたという。 京澤は、1929年に日本に渡り、大阪の廣田裁工所に勤務。廣田裁工所は民間のカッターシャツなどを製造していたが、1938年に陸軍管轄となり軍需被服や天幕を製造していた。京澤の勤務期間や役職は不明だが、上級管理職を務めていたと考えられている。戦後、密航船を運営していたが逮捕され、1962年10月に強制退去となり第99次帰還船で北朝鮮に帰国した。北朝鮮では咸鏡北道にあるミョンガン化学工場の労働者として働いていたという。 家族には、金策工業大学に通う長男、商業高校を卒業し販売員となった長女、高等中学校を卒業した次男、咸興薬学大学に通う三女ヨンスクがいる。高ヨンジャは次女で、朝鮮では名前をヨンヒに変え、無料で奨学金まで受けながら音楽舞踊大を卒業し、「功勲俳優」となり、「金日成主席の配慮によって国家授勲の栄誉をにない、表彰までされた」という。「ヨンヒ」に改名したのは、「ヨンジャ」が日帝残滓とみなされる「子」の付いた日本風の女性名だったからではないかと考えられる。妹のヨンスクは、2001年10月アメリカに亡命した高英淑と符合する。 デイリーNKは、「高英姫」のハングル表記が「고용희」であり、「英(ヨン)」の部分がそれまで一般的に使用されていた「英(영:ヨン)」ではない可能性が高いと2012年から指摘していたが、同年6月前後に明らかになった彼女の墓標には「고용희」と記されていることが判明し、「英」でないことも立証された。なお、当時の北朝鮮では漢字を使用していなかったため、漢字名は長らく不明とされたが、高英起は「踊る姫」をイメージして「踊姫(용희)」の可能性があると主張していた。今日では、高英淑の夫により正しくは「高容姫」であると訂正されている。
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