食卓の文化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/04 02:35 UTC 版)
紀元前300年頃より、ギリシャの習慣がローマの上流階級に影響を与えるようになった。増大する富はかつてないほど大規模で洗練された食事へとつながった。栄養価は重視されていなかった。それどころか、美食家たちはカロリーも栄養も少ない食べ物を好んだ。消化の良い食べ物や利尿作用を持つものがもてはやされた。 食事の時には食事用のドレス(ウェスティス・ケナトリア vestis cenatoria)などの寛いだ感じのゆったりとした服が好まれた。ディナーは後にトリクリニウム triclinium と呼ばれることになる食堂で取られた。ここで、人々は食事用の長椅子(レクトゥス・トリクリナリス lectus triclinaris)に横になった。円卓 mensa の周りには奴隷が食事を運び易いように、レクトゥスが3つ馬蹄形に並べられ、レクトゥス1つには最大で3人が横になった。王政期および共和政期には、レクトゥスに座ることが許されたのは男性のみであった。椅子の傍らには飲物のためのテーブルが置かれた。頭を中央のテーブルの方にして左肘をクッションに乗せ、足がレクトゥスから出た格好で最大9人の人が一つのテーブルで食事をすることができた。それ以上の人数の客人は椅子に座った。奴隷は通常立っていなければならなかった。 ケーナ cena の前には足と手を洗った。食事を取るときは、指先と2種類のスプーン(大きめのリグラ ligula と小さく柄がとても細いコクレアル cochlear)を使った。コクレアルは貝やカタツムリなどの軟体動物を突いて食べるときに現代のフォークのように使われた。大きな塊は小分けにするためにテーブルでカットされた。料理の各皿の後には指を洗い、ナプキン(マッパエ mappae)で口を拭った。客人は自分のマッパエを持参して食事の残りやお土産(アポホレタ apophoreta)を持って帰ることもあった。 ローマ人の食事の文化で珍しいのは骨や貝殻などの食べられない部分を床にそのまま投げ捨て、後は奴隷に任せておくことだった。 夏には外で食事をする事がよくあり、ポンペイの多くの家はそのためにだけ庭の一番美しい場所に石でできた長椅子を備えていた。しかし、その椅子に横になるのは正式の催しの場合のみで、普段は腰を掛けたり立ったままで食事をとったりした。
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