風俗営業としてのカフェー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 08:24 UTC 版)
「カフェー (風俗営業)」の記事における「風俗営業としてのカフェー」の解説
カフェーがもっぱら女給のサービスを売り物にするようになったのは関東大震災後と見られる。震災の翌年(1924年)、銀座に開業したカフェー・タイガーは女給の化粧や着物が派手で、客に体をすり寄せて会話するといったサービスで人気を博した。 昭和に入り、大阪の大型カフェ(ユニオン、赤玉など)が東京に進出してきたことにより「銀座は今や(…)大阪エロの洪水」という状態で、女給は単なる給仕(ウエイトレス)というより、現在で言えばバー・クラブのホステスの役割を果たすことになった。 ちなみに当時の女給は多くの場合は無給であり、もっぱら客が支払うチップが収入源だった。チップ制の弊害もあり、1933年頃からチケット制を採用する店も増えた。1933年には特殊飲食店営業取締規則により、カフェーは風俗営業として警察の管轄下に置かれることになった。 昭和初期のエログロナンセンスの世相の中、夜の街を彩る存在としてカフェーは小説などの舞台にもなった。当時のカフェーを描いた小説として永井荷風「つゆのあとさき」、堀辰雄「不器用な天使」、窪川稲子「レストラン・洛陽」、広津和郎「女給」がある(広津の作品は菊池寛のカフェー通いを描いて評判になった)。また、谷崎潤一郎「痴人の愛」のナオミは、15歳で浅草のカフェーに出ていた女という設定である。林芙美子がカフェー勤めの経験を「放浪記」に書いたこともよく知られている。エッセイでは松崎天民「銀座」、安藤更生「銀座細見」などがカフェー風俗を活写している。 大正後期から昭和初期にかけては、カフェーをテーマにした歌謡曲が流行し「カフェー歌謡」と呼ばれた。 女給は客の求めに応じて店外で同伴するケースも見られた。1940年(昭和15年)12月、警視庁が日本相撲協会関係者らを招き、風紀上問題のある行為を指導した際には、相撲の升席の客に芸妓とならび女給を同伴させないことを求めている。
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