鞆幕府の呼称・構成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/09 04:12 UTC 版)
義昭の幕府再興への働きかけや、彼に付き従う奉公衆や奉行衆といった幕臣の存在から、藤田達生はこの亡命政権を「鞆幕府」と呼んでいる。 また、政権としての実体もあった。義昭を筆頭とする鞆幕府は、奉公衆・奉行衆・同朋衆・猿楽衆・侍医・女房衆などが約50人以上、伊勢の北畠具親や若狭の武田信景、丹波の内藤如安、近江の六角義治(義堯)らといった大名の子弟からなる大名衆も集結し、その幕府関係者の総勢は100名を下らなかった。大名衆らは信長に所領を没収されたり、あるいは追放された旧国司や守護、守護代であり、義昭に供奉することで自家の再興運動を行っていた。 この政権において、奉公衆は義昭の活動を支え、外交上の交渉に従事し、奉行人は公式文書である奉行人奉書を発給している。義昭は反織田勢力を取りまとめて再起を図るのみならず、京都五山など禅宗寺院の住持を任命したり、諸士に栄典を授与している。 鞆幕府は毛利氏の権力と一体化しており、それによって機能していた。義昭は毛利氏の当主・毛利輝元を副将軍に任命することにより、その庇護を受け、自身の政権を維持した。輝元もまた、義昭を庇護することで公権力を推戴する形となり、自身の正当性や大義名分を得た。 藤田は「将軍義昭とその関係者一行の逗留によって、あたかも鞆の浦周辺には幕府が成立したかの様相を呈していた」と評している。だが、義昭とその周辺は鞆に下向し、依然として政治的な勢力であったものの、鞆にいた義昭には朝廷との関わりがなかった。この時の義昭は「天下人」として天下を掌握できておらず、また朝廷を庇護する存在でもなかった。そのため、鞆幕府の呼称を用いない研究者もいる。
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