電力業界への参画から実業界の引退とは? わかりやすく解説

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電力業界への参画から実業界の引退

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/31 14:26 UTC 版)

松永安左エ門」の記事における「電力業界への参画から実業界の引退」の解説

1909年明治42年)、福博電気軌道設立関わり松永電力事業携わる第一歩となったその後いくつかの電力会社合併し九州電灯鉄道となり、さらに1922年大正11年関西電気合併して東邦電力設立し副社長になった1928年昭和3年)には社長に就任し、一都十一県に電力供給するまでになったこの間1917年大正6年第13回衆議院議員総選挙当選し一期務めている(次の選挙中野正剛敗れて落選した)。 東邦電力九州近畿中部に及ぶ勢力持った。さらに東京進出図り設立された、同社の子会社東京電力は、東京電燈覇権争った1927年昭和2年)、東京電燈東京電力合併し東京電燈交付受けた大株主という立場松永同社取締役就任したその影響力はもとより、「電力統制私見」(1928年5月1日)を発表し民間主導電力会社再編主張したことなどもあって、「電力王」といわれた。 戦争訴えなくとも日本生きていけるということ成算があり、電力事業国家による管理反対した松永その道筋を説き続けた官僚嫌いでもあった松永は、講演会席上軍閥追随する官僚達を「人間クズ」と発言した1937年)。これらの言動は「天皇勅命いただいているものへの最大侮辱」と大問題になり、新聞謝罪広告掲載する事態追い込まれる当時企画院総裁だった鈴木貞一から「あなたは重大なリスト載っているから、手を引かない危ない」という忠告受けた戦争激化に伴い国家総動員法合わせて電気事業国家管理下に置く政策取られ特殊法人日本発送電会社設立され、9の会社配電事業を行うことになった一発九配体制)。これに伴う東邦電力解散1942年)を期に松永引退し以後所沢柳瀬荘茶道三昧の日を過ごした

※この「電力業界への参画から実業界の引退」の解説は、「松永安左エ門」の解説の一部です。
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