難波元助、難波千代平の功績
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「竹の谷蔓」の記事における「難波元助、難波千代平の功績」の解説
竹の谷蔓は、備中国阿賀郡釜村字竹の谷 (現岡山県新見市神郷町釜村)にて、難波親子によって造成された。1772年、難波元助(?~1810年)が改良に着手し、1830年、息子千代平(?~1858年)のもとに始祖牛が誕生した。その後代々、村民とともに竹の谷蔓牛を生産、発達させてきた。 難波元助は鉄山経営で資産を成した家系で、太田辰五郎と並び地方屈指の財を有する富豪であった。新見藩から孝子表彰されるなど、村民からの信頼も厚い郷土の偉人である。 その跡を継いだ千代平もまた、地域からの信望に厚く、資金を惜しまず牛に投資し、村民とともに良牛の生産に努めた。千代平の牛への情熱を表すものとして、以下に聞書を引用する。 夜更けて酔うて帰つても先ずは厩の前に立ち「おい寝て居るのか 起きておるのか これを食え」といつて、牛に草を与えねば上には上がらなかつた。牛に水を飲ます時は喉にかかるものを取除いてやる、糠篩でおろして針などの調べをするというように飼育にもよく注意した。 ー阿哲畜産農業協同組合連合会編集『阿哲畜産史』(1955年)172頁より そのような千代平のもとに出現した竹の谷蔓牛は名声を博し、周辺地域にも続々と導入され、多くの分蔓を生み出した。辰五郎の大赤蔓もその一つである。 竹の谷蔓の創成は、親子2代にわたる熱意と、また、それを集団で支えるに足る郷党からの厚い信望によって成されたと言える。 一方、技法面としての成因を以下に記した。 優秀な子牛を生んだ雌牛を中心として系統繁殖を行った。 母子交配のなどの近親交配もあえて行った。 種雄牛は同一系統から自家生産し、厳選した。 2頭の種雄牛を交互に交配し、強すぎる近親交配を避けた。 以上は、現代の家畜育種学からみても理想的であり、ほぼ完璧な手法である。またこれらの功績は、羽部義孝博士を初め、以下のような発言で顕彰されている。 「メンデルの遺伝理論が発見されるより遥か以前の、しかも西洋との学識的交流のなかった江戸時代の中国地方山間僻地の農家において、近代の家畜育種の常識的手法が既に確立されていたことは、驚嘆に値することであって、世界に誇るべき家畜改良上の偉大なる業績と言わなくてはならない。」
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