難波京の大極殿
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/20 10:24 UTC 版)
難波京の難波宮(後期難波宮)は、723年(養老7年)、複都制により平城京の副都として造営された宮である。聖武天皇治下の744年(天平16年)、天皇が突如、難波宮への遷都を表明し、諸臣はそのとき恭仁京遷都を推す人が多かったというが、天皇は難波への行幸を決行したといわれる。難波に着いてほどなく、天皇は紫香楽宮へ移り、結局、留守司の橘諸兄より難波を皇都とする旨の勅が出された。しかし、紫香楽宮で震災に遭遇した聖武朝は群臣そろって平城京への還都を決め、745年(天平17年)の還都後は、再び、長岡遷都直前の793年(延暦12年)まで平城京の副都の地位にあった。 難波宮は、1961年(昭和36年)、山根徳太郎により発見されそののち発掘調査がなされたが、この宮の下層から検出されたのが上述した前期難波宮である。 後期難波宮は、北より内裏、大極殿、朝堂8堂よりなる朝堂区域(朝庭ふくむ)、朝集殿2堂が一直線にならぶ形態をとっており、建物数、構造配置のうえで長岡宮に類似しており、長岡宮は難波宮の建物を移築して営まれたことが判明している。 現在は、難波宮史跡公園に土台が復元されている。
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