隋・唐(589-907)
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「貴族 (中国)」の記事における「隋・唐(589-907)」の解説
北周から禅譲を受けた隋であったが、その制度は斉制を継ぎ、貴族制もまた受け継いだ。 595年(開皇15年)に中正が廃止され、開皇年間(581年-600年)中には科挙制度が確立された。これと平行して任子制もまた行われており、この頃では貴族は任子によって官界に入り、科挙に応じることはまずなかった。 隋から初唐においては旧斉に属する清河崔氏などの山東貴族が最高であり、その次が関隴集団らの鮮卑系貴族、その次が琅邪王氏など南朝において長い伝統を誇る北来貴族、その下に置かれるのが呉郡陸氏など江南を本貫とする南人貴族であった。 唐皇帝李氏は関隴系であるが、それでもなお山東系の家格が上であるという意識は強く残っていた。太宗は貞観6年(632年)に家格を書物にまとめることを命じ、これによりできたのが『貞観氏族志』である。初め、山東貴族である博陵崔氏の崔民幹が一等とされ、唐李氏は三等に格付けされた。これに怒った太宗は作り直しを命じ、李氏を一等に、長孫氏らの唐の外戚を二等に、山東貴族らを三等に付けた。 このように、初唐では山東系を強く抑圧した形で関隴系が主導権を握っていた。この状態を大きく崩したのが武則天である。武則天自身も関隴系の出身であるが、本流からは遠く、女性の身で権力を握ることへの反発もあり、関隴集団の助力は受け難かった。そこで武則天は自らの手足として科挙官僚を積極的に登用し、関隴系の権力を切り崩しにかかった。これにより関隴系の勢力は減退せざるを得なくなり、それに代わって山東系とこの時代における貨幣経済の伸張に伴って勢力を伸ばしてきた新興地主勢力とが官界を二分するようになり、関隴系の存在は小さなものとなった。 武則天後の玄宗は再び関隴集団を登用する反動政治を行うが、玄宗自身の退嬰とそれによって起きた安史の乱により頓挫した。安史の乱の大動乱の後、地方には藩鎮勢力が割拠するようになる。各地の藩鎮勢力はその幕下に優秀な人材を集めるために辟召を行った。 貴族層は官僚の出処進退を司る尚書吏部を支配下に置いており、科挙官僚を中央から排斥していた。そのような人物がこの藩鎮の辟召を受けることとなる。その代表としては韓愈が挙げられる。憲宗の時期より関隴系の牛僧孺・李宗閔らと山東系の李徳裕らの争いが勃発するが(牛李の党争)、その中で両派は自派の勢力を拡大するために盛んに辟召を行い、その結果として新興勢力の進出はますます促進された。 さらに唐末の戦乱の中で、貴族勢力は壊滅的な打撃を受けた。後に唐を滅ぼして後梁を建てる朱全忠は、905年に配下李振から「かつて貴族たちは自ら清流と自称していた。こいつらを黄河に沈めて、濁流としてしまいましょう」という進言を聞き、その通りに実行した(白馬の禍)。この事件の時点で貴族勢力は完全に壊滅したと考えられる。 北宋以降は、科挙官僚たちが完全に主導権を握り、「士大夫」と呼ばれる新しい支配層を形成した。
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