陳安討伐とは? わかりやすく解説

陳安討伐

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/18 19:05 UTC 版)

劉曜」の記事における「陳安討伐」の解説

323年6月陳安南安進軍し前趙征西将軍劉貢を包囲攻撃した。休屠王石武は城から出撃し、陳安根拠地である上邽攻撃した陳安背後突かれる事を恐れ南安包囲解いて上邽戻った陳安と石武は、瓜田会戦した。石武は兵が少なかった為、撤退して張春の旧砦に拠った。陳安は軍を率いて石武を追撃すると「叛逆した胡奴め必ずや生け捕りしてやろうその後に劉貢を斬り捨てん」と叫んだ。石武は砦の守り固めて陳安防いだ。 劉貢が陳安後軍攻撃掛け、これを破った。劉貢が捕虜斬殺した者は1万余り数えた陳安は軍を返して後軍救援向かったが、返り討ち遭った。さらに石武の騎兵到来すると、陳安挟み撃ち遭って大い潰走し、8000騎兵収容して、隴城に逃げた。劉貢は石武に後方の軍を監督させると、自ら兵を率いて陳安を再び破り遂に隴城を包囲した7月劉曜は自ら親征して陳安征伐乗り出し、隴城の包囲に加わると、別働隊上邽包囲させた。劉曜陳安数度渡って破り首級8000余り挙げた右軍将軍劉幹平襄陥落させると、隴上の諸県尽く降伏した劉曜は隴右の死刑以下に大赦下したが、陳安と趙募は例外とした。陳安将軍の楊伯支・姜沖児に隴城を守らせると、騎兵100率いて包囲陣を突破した陳安上邽平襄の兵を率いて、隴城の包囲解こう考えていたが、上邽が既に包囲され平襄陥落した事を知った。そのため、南の陝中へと奔った。劉曜将軍平先・丘中伯らに精騎兵を与え陳安追撃に向かわせた。平先軍は何度も陳安軍に攻撃加え捕縛斬殺した者は400余り数えた陳安壮士10余りと共に陝中で決戦挑み左手七尺大刀右手に丈八の蛇矛を手にした。接近戦では刀矛を振り回し瞬く間5・6首級飛んだ。距離を取ると、両側着け矢筒から矢を取り出し左右から騎射した。だが、平先また、超人的な壮健さを誇り空を飛ぶような勇捷さ有していた。平先陳安接近すると、一騎打ち仕掛けた斬り合うこと3合、平先陳安から蛇矛奪い取って退いた日が暮れると、激しい雨が降った陳安は馬を捨てると、側近5・6と共に山嶺越え渓谷身を潜めた。翌日劉曜山狩り行ったが、所在掴めなかった。さらに翌日連日降り続いた止み雲間から日が差し始めた陳安は、将軍の石容に敵軍動向探りに行かせた。しかし石容は、輔威将軍呼延青人に捕えられた。呼延青人は陳安所在を吐かせようと、拷問掛けた。石容は頑として口を割らず拷問果てに息絶えた呼延青人は捜索再開すると、陳安足跡発見した。それを追って行き陳安山谷発見すると、その場斬り殺した。この報告に、劉曜大い喜んだ陳安はよく兵士慰撫しており、順境の時も逆境の時も全て兵士と共にした。隴上の人彼の死を悲しみ壮士の歌を作った劉曜はこれを聞くと胸打たれ楽府命じてこれを歌として残すよう命じた陳安の死を知った楊伯支は姜沖児を斬り、隴城ごと前趙降伏した。別将の宋亭は上邽の守将である趙募を斬って降伏した劉曜秦州豪族である楊氏と姜氏等、2000余り長安移した氐族羌族尽く人質送って前趙帰順した劉曜は赤亭羌の酋長である姚弋仲を平西将軍任じ平襄公に封じた

※この「陳安討伐」の解説は、「劉曜」の解説の一部です。
「陳安討伐」を含む「劉曜」の記事については、「劉曜」の概要を参照ください。

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