陳安討伐
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323年6月、陳安は南安に進軍し、前趙の征西将軍劉貢を包囲攻撃した。休屠王石武は桑城から出撃し、陳安の根拠地である上邽を攻撃した。陳安は背後を突かれる事を恐れ、南安の包囲を解いて上邽に戻った。陳安と石武は、瓜田で会戦した。石武は兵が少なかった為、撤退して張春の旧砦に拠った。陳安は軍を率いて石武を追撃すると「叛逆した胡奴め。必ずや生け捕りとしてやろう。その後に劉貢を斬り捨てん」と叫んだ。石武は砦の守りを固めて、陳安を防いだ。 劉貢が陳安の後軍に攻撃を掛け、これを破った。劉貢が捕虜・斬殺した者は1万人余りを数えた。陳安は軍を返して、後軍の救援に向かったが、返り討ちに遭った。さらに石武の騎兵が到来すると、陳安は挟み撃ちに遭って大いに潰走し、8000の騎兵を収容して、隴城に逃げた。劉貢は石武に後方の軍を監督させると、自ら兵を率いて陳安を再び破り、遂に隴城を包囲した。 7月、劉曜は自ら親征して陳安の征伐に乗り出し、隴城の包囲に加わると、別働隊に上邽を包囲させた。劉曜は陳安を数度に渡って破り、首級8000余りを挙げた。右軍将軍劉幹が平襄を陥落させると、隴上の諸県は尽く降伏した。劉曜は隴右の死刑以下に大赦を下したが、陳安と趙募は例外とした。陳安は将軍の楊伯支・姜沖児に隴城を守らせると、騎兵数100を率いて包囲陣を突破した。陳安は上邽、平襄の兵を率いて、隴城の包囲を解こうと考えていたが、上邽が既に包囲され、平襄も陥落した事を知った。そのため、南の陝中へと奔った。劉曜は将軍の平先・丘中伯らに精騎兵を与え、陳安の追撃に向かわせた。平先軍は何度も陳安軍に攻撃を加え、捕縛・斬殺した者は400人余りを数えた。陳安は壮士10騎余りと共に陝中で決戦を挑み、左手に七尺の大刀、右手に丈八の蛇矛を手にした。接近戦では刀矛を振り回し、瞬く間に5・6の首級が飛んだ。距離を取ると、両側に着けた矢筒から矢を取り出し、左右から騎射した。だが、平先もまた、超人的な壮健さを誇り、空を飛ぶような勇捷さを有していた。平先は陳安に接近すると、一騎打ちを仕掛けた。斬り合うこと3合、平先は陳安から蛇矛を奪い取って退いた。 日が暮れると、激しい雨が降った。陳安は馬を捨てると、側近5・6人と共に山嶺を越え、渓谷に身を潜めた。翌日、劉曜は山狩りを行ったが、所在を掴めなかった。さらに翌日、連日降り続いた雨が止み、雲間から日が差し始めた。陳安は、将軍の石容に敵軍の動向を探りに行かせた。しかし石容は、輔威将軍呼延青人に捕えられた。呼延青人は陳安の所在を吐かせようと、拷問に掛けた。石容は頑として口を割らず、拷問の果てに息絶えた。呼延青人は捜索を再開すると、陳安の足跡を発見した。それを追って行き、陳安を山谷で発見すると、その場で斬り殺した。この報告に、劉曜は大いに喜んだ。 陳安はよく兵士を慰撫しており、順境の時も逆境の時も全て兵士と共にした。隴上の人は彼の死を悲しみ、壮士の歌を作った。劉曜はこれを聞くと胸を打たれ、楽府に命じてこれを歌として残すよう命じた。 陳安の死を知った楊伯支は姜沖児を斬り、隴城ごと前趙に降伏した。別将の宋亭は上邽の守将である趙募を斬って降伏した。劉曜は秦州の豪族である楊氏と姜氏等、2000戸余りを長安に移した。氐族や羌族も尽く人質を送って前趙に帰順した。劉曜は赤亭羌の酋長である姚弋仲を平西将軍に任じ、平襄公に封じた。
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