陳安離反
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/18 19:05 UTC 版)
秦州刺史陳安は劉曜に謁見しようとしたが、劉曜は病のため拒否した。これに怒った陳安は劉曜は既に死んだと思い、略奪をして引き返した。劉曜は病が重く、馬に乗れないため輿で長安に帰り、配下の呼延寔に輜重部隊を監理させて後方に置いた。陳安は精騎兵を率いてこれを襲撃し、呼延寔を捕えて輜重を奪った。陳安は呼延寔へ、共に前趙を討つよう持ち掛けたが、呼延寔は拒否して陳安を罵った。陳安は怒って呼延寔を殺し、呼延寔の長史魯憑を参軍にした。陳安は弟の陳集に騎兵3万を与え、魯憑の弟である魯集と将軍の張明と共に前趙軍を追撃させた。しかし、前趙の衛将軍呼延瑜が迎撃して陳集らを斬り、その兵を捕虜とした。陳安は恐れて上邽に帰った。劉曜は南安に到った。陳安は配下の劉烈と趙罕に汧城攻撃を命じ、劉烈と趙罕は汧城を落とした。隴上の氐や羌は尽くが陳安に帰順し、陳安は10万余りの兵を擁するようになり、使持節・仮黄鉞・大都督・大将軍・雍涼秦梁四州牧・涼王を自称した。また、趙募を相国に任じ、左長史を兼ねさせた。魯憑は陳安を諫めたが、陳安は激怒して魯憑を殺した。これを聞いた劉曜は「賢人とは天下が渇望する存在だ。賢人を殺害する事は、天下の情を塞ぐことである。承平の君は、臣妾の心が離れるような事はしない。まして四海を剥離させるようなことは猶更である。陳安は賢人を求めるべき時なのに、逆に殺してしまった。彼は大事を成す器ではない」と嘆息した。 匈奴の休屠王石武が桑城を挙げて前趙に降った。前趙は石武を使持節・都督秦州隴上雑夷諸軍事・平西大将軍・秦州刺史に任じ、酒泉王に封じた。
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