銚子港の繁盛と整備
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 23:04 UTC 版)
交通の要所、魚介類の水揚げ場、醤油の生産地として栄え、多くの船舶が入出港し、明治時代に入ると銚子漁港はますます漁業の港として栄えることになる。明治初年頃の銚子(飯沼)は、千葉県で一番人口の多い都市であった。また、利根川を蒸気船が就航することになり、銚子~東京間を結ぶようになると、東京及び周辺地域から避暑や海水浴で大勢の人が訪れた。 犬吠埼付近に岩礁、暗礁が多く、海流が複雑で、1868年(慶応4年)には、幕府の軍艦「美賀保丸」が暴風雨に遭い、黒生(くろはい)沖の岩礁に乗り上げて座礁沈没、乗組員が死亡するという事故も起きていた。このような状況の中、銚子港の改修と洋式灯台の設置が求められ、明治初期に江戸条約によって建設された8基、及び大坂条約によって建設された5基の洋式灯台に続く重要な灯台として建設が決まり、1872年(明治5年)に着工。1874年(明治7年)には犬吠埼灯台が完成する。1886年(明治19年)には銚子地方気象台、1908年(明治41年)には銚子無線電信局が建設されている。その後、1897年(明治30年)には国鉄総武本線が銚子駅まで開通、利根川沿いの国鉄成田線は1898年(明治31年)には佐原駅まで開通し、のちに松岸駅まで開通したことで総武本線と接続した。両方の鉄道が銚子まで延伸したことで旅客や貨物輸送は増加し、銚子への観光客はさらに増えて観光産業が盛んになった。 また、江戸時代後期以降の銚子港は漁港として賑わい、東回り海運が衰退する明治期以降も、ますますその需要を伸ばした。 ところが、港湾の形状は依然として整備されず、船舶を迅速に運転できるよう近代化する必要に迫られていた。第一次整備計画が完成したのは1925年(大正14年)のことであった。1932年(昭和7年)に第一卸売市場(中央市場)が完成する。
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