銚子無線局長、船橋無線電信局時代
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「米村嘉一郎」の記事における「銚子無線局長、船橋無線電信局時代」の解説
銚子無線電信局は日本最初の無線電信局として1908年(明治41年)5月16日に開設されたが、設備、能力とも増強され1915年(大正4年)には主にアメリカ航路または付近海上を航行する内外国船舶と通信し、一ヶ月800通あまりの内外国無線電報を取り扱い、1日5隻の船舶と交信をする重要な無線局になっていた。1910年(明治43年)7月9日には逓信大臣の後藤新平が視察し、その後1911年(明治44年)5月20日には大正天皇(当時は皇太子)が訪問した。 1913年(大正2年)4月、嘉一郎は3代目の銚子無線局長となる。この時期、無線電信の概説書として、局の小松三郎の協力も得て『通俗無線電信』を1915年(大正4年)4月電友社から刊行している。国立図書館に蔵書があり、目次は下記の通り。 1)発明 2)原理 3)装置 4)逓信省式無線電信 5)帝国無線電信局 6)銚子無線電信局 7)無線電信の利用 8)各国の無線電信局数 9)世界の無線電信方式 10)欧米の大無線電信局 11)内国無線電報 12)外国無線電報 無線局では当時、無線通信士には英語力が必須として毎日午前9時から1時間、英語読書会をおこなった。1913年(大正2年)6月から1916年(大正5年)2月までの約2年半の対象として8冊の書籍が挙げられている。 1914年、アメリカ・マルコーニ社(RCAの前身)から、サンフランシスコとハワイに設置した強力な無線電信局より日本に無線連絡を延長したいという申し出がなされる。当時海軍が建設中の無線電信所船橋送信所を逓信省が使用して、ハワイとの無線連絡試験を1915年7月からの1年間に4回実施した。この試験に嘉一郎も参加している。試験により昼夜ともに通信できる見通しが立ったことから、1916年9月に逓信省船橋無線電信局が併設され、嘉一郎は業務開始の準備を他の3人の通信書記とともに担当、11月16日に一般電報の取り扱いを開始した。
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