金ヶ崎城攻防戦と落城
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 05:20 UTC 版)
金ヶ崎城は義貞入城後、まもなく足利軍の攻撃を受ける。金ヶ崎を出発した義顕と脇屋義助だが、瓜生保が、足利尊氏が出した偽の綸旨に騙されて、足利側に転じていた。保の弟達(義鑑、瓜生重、瓜生照)が、このことを義助に知らせたため、義助、義顕は瓜生勢の加勢を諦めて金ヶ崎城へ引き返した。この際、義助は脇屋義治を瓜生三兄弟に預けて保護を頼んでいる。また、瓜生保離反を知らされたことによって軍勢は動揺し脱走者が続出、金ヶ崎城出発時には3000騎いた義助、義顕の軍勢は最終的に16騎にまで減ってしまった。さらに、金ヶ崎城にまで引き返すと、すでに城は斯波高経らの軍勢に包囲されていた。栗生顕友が献策した奇襲によって、義助、義顕らは16騎で敵中へ突入して金ヶ崎城へ帰還することに成功した。またこの際、義貞も味方が奇襲をしかけたことを即座に察知して、城内から800騎の手勢を差し向けて斯波軍を撹乱させ、奇襲成功に貢献した。この時の斯波高経の軍勢は寄せ集めの烏合の衆であり統率を欠いていたため、義助、義顕の奇襲に慌てふためき同士討ちまでした末に四散して逃走していった。 一度は足利軍を迎撃した義貞達には、つかの間の休息があった。10月20日、尊良、恒良両親王、義貞、義助、洞院実世らは、敦賀湾に船を浮かべ雪見をした。親王や各々の公家、武将達が得意とする楽器を奏でたと言われ、義貞は横笛を奏でた。 敗北した足利軍は再度軍勢を束ねて、1337年(延元2年)1月18日に金ヶ崎を攻めた。高師泰を総大将とし、斯波高経の他に、仁木頼章、小笠原貞宗、今川頼貞、細川頼春ら6万の大軍を差し向け、さらに海上にも水軍を派遣して四方から金ヶ崎を包囲した。足利軍は総攻撃を仕掛けるが、最初は義貞達が優位な形勢にあった。さらに、一度は足利についた瓜生保が翻意して義貞に味方した。金ヶ崎城を包囲していた斯波高経の軍勢は、義貞と瓜生保に挟まれてしまうこととなった。さらに足利軍へ兵糧を補給する中継地であった新善光寺城を瓜生保が陥落させることに成功した。 しかし、金ヶ崎城の兵糧は日に日に尽きてゆき、城中は飢餓に襲われた。『太平記』は「死人の肉すら食べた」、『梅松論』は「兵糧がつきた後は馬を殺して食糧にした」「城兵達は飢えから『生きながらにして鬼となった』」と、その凄惨さを叙述している。1月12日に瓜生保とその弟達、里見時義らが、杣山城から兵糧を金ヶ崎城へ運び込もうと向かったが、足利軍に察知されて今川頼貞に迎撃され壊滅、瓜生兄弟、里見時義らは戦死した。二月には、新田軍は城内から出撃し、足利軍の背後にいる杣山城の脇屋義助を初めとする諸将と連携して足利軍を挟撃した。しかし、風雪の激しさからか、同時に挟撃することができなかった。この間、義貞は越後の南保重貞に救援の要請を出していたようであり、2月21日に重貞から義貞の元へ注進状が送られている。 3月5日から足利軍による最後の攻撃が行われ、翌6日に金ヶ崎城は陥落する。落城に際して、義顕や尊良親王は自害、恒良親王は捕虜となった。義貞は、前日の夜に洞院実世らとともに脱出したと『太平記』には書かれているが、激戦の中、二人の親王を置いたまま脱出したことについては、義貞が本当にそのような行動を取ったのか、真偽を疑われている。また、義貞は金ヶ崎城と杣山城を往復して指揮を取っていたとも言われており、2月に金ヶ崎城を出て、杣山城にいる間に金ヶ崎城が落城してしまったのではないかという見解もある。いずれにせよ、義貞が落城の折難を逃れて生き延びたことは事実であった。
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