郡中議定の取り決め内容
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村山郡で最初に郡中議定が結ばれたのは、安永7年(1778年)2月のことで、その目的は、仙台で鋳造された粗悪な銭が郡内に流入することを防止するためだった。 その後も、天明3(1783年)から同6年(1786年)にかけての「天明の飢饉」の際に、食料を確保するために米穀の郡外への移出禁止や酒造の禁止、口留番所の設置などを定めた郡中議定が繰り返し制定された。食料不足の問題が起きれば、一揆が発生する恐れがあり、郡中惣代や大庄屋はそれを未然に防ぐことを考えて議定を定めて社会不安に対処した。 天明3年には、村山地方の尾花沢・長瀞両代官所管轄下の村々は飢饉により約7割の住民が食糧を確保できないほどだったが、幕府は同年8月に安石代の禁止=廻米の強化を命じた。郡内の名主・大庄屋たちは、食糧不足とそれによる社会不穏が生じることを恐れて郡中議定を結び、訴願闘争を繰りかえした。このころ、小規模ながら貧農層による米穀商・酒屋打ちこわしが複数回あり、名主層はこれらの動きに危機感を抱いていた。訴願闘争は、廻米強化によって米価が高騰することで、生活に影響を受ける農民たちが同様の騒動を起こすことを恐れた惣代名主たちによる飢民救済の意味合いも持っていた。 近世後期、村山地方においては石代納要求をめぐって闘争が頻発する。その転機となったのが天明年間で、闘争は惣代名主が主体となったため合法的形態をとることが多かった。その手段が合法的であるゆえに闘争の持続化が可能になり、結果的に幕府の収奪強化策を後退させることとなった(宮崎勝美「天明期羽州村山郡幕領の石代納闘争と惣代名主制」『尾藤正英論集』)。 18世紀後半では基本的に凶作時の食糧確保を目的として議定が結ばれたが、19世紀に入ってからは日雇い賃金の抑制や紅花の種の郡外移出禁止などの項目が加わるようになった。「日雇い賃金の抑制」は雇用者である富裕な百姓層の利益のため、「紅花の種の郡外移出禁止」は紅花栽培が全国各地に拡大することで紅花価格が下落することを防ごうという、村山地方の村々の利益を守ることを目的に決められた。 そして幕末には、万延元年(1860年)10月と慶応2年(1866年)に、総合的な内容をもつ郡中議定が結ばれた。
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