郡上藩財政の逼迫化と賦課の増大
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「郡上一揆」の記事における「郡上藩財政の逼迫化と賦課の増大」の解説
金森頼錦は藩主就任当初、将軍吉宗の施策に倣って郡上八幡城下に目安箱を設け、民衆の声を取り入れようと試みたが、目安箱に投じられた誹謗中傷をよく調べることなく採用して処罰を行うなどの失策を犯していた。 そして藩主金森頼錦を苦しめたのが郡上藩の財政難であった。元来郡上領は豊かではない上に、二度の転封の結果、金森家の財政に余裕がなくなっている中で、元来派手な一面があった藩主頼錦は奏者番就任後にその派手さを増し、また諸大名家との交際費も嵩み、その結果として郡上藩の財政状況はどんどんと厳しくなっていった。また宝暦初年になると豊作のため米価が下落したため、藩財政はよりいっそう困窮することになった。 厳しい財政事情の改善策として、藩主頼錦は藩士の俸禄の切り下げを行うなど、経費節減策を全く講じなかったわけではない。しかし財政難の解決方法として主に採用した対策はやはり増税であった。早くも頼錦が藩主となった直後の元文元年(1736年)に、藩邸の再建のために臨時の賦課にあたる御用金の徴収を命じ、領内の農民、町人、寺院に御用金を割り当てて2500両を集めた。そして金森頼錦はその後も毎年のように御用金、御供米の賦課を行い続けた。また生糸にかける税を引き上げたり、牛馬の往来に通行税を徴収することとしたり、そして親類などへの贈り物を持って番所を通過する際に、贈り物に対して税を取り立てるなど、あの手この手を使っての課税強化に努めた。また税の取立て以外にも多くの馬を御用として徴用したり、郡上城の工事などに人々を徴用するなど賦役も度重なるようになった。 このように様々な手段で税を取立てるようにした上に、御用金、御供米の賦課、工事などへの使役といった施策を行っても、藩財政は改善を見せず厳しい状況が続いたため、元禄12年(1699年)に前藩主金森頼時によって定免法とされた年貢取立てを、見取免(検見取)にして年貢の増徴を図ることとなった。
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