郡上藩初代藩主
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/06/18 03:38 UTC 版)
徳川家康が江戸幕府を開くと、郡上藩が成立し、慶隆はその初代藩主となって、次の慶利の代まで城主格の待遇を受けた。 慶長6年(1601年)の膳所城を皮切りに、天下普請に動員される。翌7年(1602年)には、長尾村銀山を領有。また、慶長6年(1601年)春から8年(1603年)秋にかけて、郡上城を改修した。同9年(1604年)に、従五位下但馬守に任官。 慶長14年(1609年)11月、伯耆国米子城主中村一忠が継嗣無く死去し、同藩在藩を命じられて、60日間滞在の後に帰国した。同18年(1613年)には、幕府の命によって、妻子を郡上から江戸に移住させた。 慶長19年(1614年)、大坂冬の陣では、嫡子慶勝と共に枚方に布陣し、久良加利峠(暗峠)を守備した。しかし、翌年(1615年)2月12日、慶勝は京都柳の馬場で病死した。同年の大坂夏の陣では、慶隆は山城国八幡に布陣し、本多康紀・本多康俊と共に再度び良加利峠を守備した後、松原に在陣。5月6日に、大和川へ進み、翌7日には岡山口から玉造口に攻め入って、城中に放火して退陣し(天王寺・岡山の戦い)、その戦功によって、8日には二条城で家康より黄金20枚を受けた。 元和3年(1617年)、金森可重が未だ江戸へ妻子を送っていないことに関し、徳川秀忠の命により領地高山へ赴き交渉した。寛永年間(1624年 - 1643年)には、参勤交代の道中で鉄砲5挺を携行できる終身の恩典を与えられたが、これは入鉄砲出女の警戒下にあって幕府よりの信任が厚かったことが伺える。 寛永9年(1632年)2代将軍徳川秀忠が亡くなったのを期に、出家して旦斎と号したが、その2ヵ月後に江戸で死去した。享年83。実子慶勝病没後、養子となった慶利が跡を継いだ。
※この「郡上藩初代藩主」の解説は、「遠藤慶隆」の解説の一部です。
「郡上藩初代藩主」を含む「遠藤慶隆」の記事については、「遠藤慶隆」の概要を参照ください。
- 郡上藩初代藩主のページへのリンク