郡代の追放と自治
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/09 15:18 UTC 版)
慶応4年(1868年)3月15日、国分寺で庄屋職の会合が開かれたが、意見は松江藩の郡代追放を主張する「正義党」と反対する「出雲党」に分かれていた。 直後、正義党の100人が横地官三郎宅で郡代の追放を決定。そして3月19日、住民およそ3000人が隠岐郡代の陣屋を取り囲んで、郡代に6箇条からなる要求を行い島外退去を迫り、翌日に山郡は藩船で隠岐を離れた。以後、施政機関としての総会所が陣屋に設置され、島民による自治が開始された。 『隠岐島誌』によると次のような自治組織だった。 総会所頭取兼算用衆 会議所 周旋方 文事頭取 軍事方頭取 撃剣頭取 武具方 兵糧方同世話方 算用調方 廻船方頭取 三町壮士附添 記録方 直用掛 警衛頭取 目付役
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